2007年12月31日月曜日

馬鹿平和な大晦日の光景

年末一番最初に帰省したのは私だった様だ。既に30日から寝正月に突入していたが、夕刻までに三兄弟(一人は姉だが)&家族達が三々五々集合。兄の一家が揃ったのは二年ぶり。
夕刻から鍋を作り、三々五々食べ始める。何も見るものが無い等と言いながら、ニュース番組で「大晦日の師走の各地の表情」等を見ている間にそのまま国営放送の下らない歌番組に突入。
法制化してまで国民から金を毟り取ろうとする国営放送はこの下らないお祭り番組をあと何年やるつもりだろうか?国営放送なんだから、「大晦日しか出てこない小○幸子の電飾に使った電力は○kWで二酸化炭素に換算すると○トンでした」とかテロップを出すとかすれば、ちょっとは大晦日のお祭り騒ぎに浮かれている世間様に対して国営放送としての示しがつくのでは?なんて事は無いか?等とツラツラ考えてみる。けど、それだったら最初からこんな公共の電波使った馬鹿祭りをやらずに、番組止めてしまうのが国営放送としての正しいあり方だろうが。
まあ天下の国営放送がこんな事やってるのだから、いくら年末だとは言っても日本て国は馬鹿平和だね。年が越えた頃、大学生だが未成年の甥っ子相手に飲んでいたビールも無くなり、眠床につく。   一年が終わった。

2007年12月30日日曜日

帰省

今日から正式な年末休暇。
新幹線移動も飽きたので、1K庵の最寄のJRの駅から新快速と各駅停車を乗り継いで岡山地方にあるわが実家まで帰ることとする。


まともに当てもしない天気予報が今日から寒波が来ると言っていたが、実際に久しぶりの寒さが来た。そんな中、朝8時過ぎに最寄駅から各駅停車に乗って、金満街で新快速に乗り換え。新快速は意外にも混んでいて、次の港町で目前の席が空いた所に座れたから良かったものの、播州平野を走り城で有名な豪農の街まで来ても立ち客は多くなれど席が空くというのは無かった様だ。



寂れた造船街で新快速を捨て、西行きの各駅停車に乗り換え。で駅に着いた途端、一斉に新快速の乗客が各停側に走りだして結局、各停の中では座れず。

関東訛りが五月蝿い学生風情の集団あり、やや壮年気味の疲れた親父さんあり、これから実家にでも挨拶に行くのか揃いのザックを背負った男女あり、ポケット時刻表をめくっている若いけど独特の格好をしたちょっと変人風の女性あり。なんだか怪しいな?この各停と思いながら観察していて気づいたのだが、、、要は安い電車旅ってのが流行っている様だ。

当然、金が安いと言うのにも魅力はあるのだろうが、スローライフを各停に乗って実践しているのか?或いは「鉄子」という言葉に代表される様に、女性の鉄道一人旅に憧れがあるのだろうか?
こちとらスローライフも何も特別な意識は無く、ただこんな事が昔から好きだからやってるわけだが。漸く世間様が気づき始めた様やね・・って一人思ってみるも、実際は皆、金を浮かすためだけに時間を浪費せざるを得ないで乗っているにすぎず、要は格差社会の縮図を運ぶ列車だったりして。。。

何て思いながら岡山に到着。ここまで最寄駅から約2時間半。昔からは随分と早くなったものだ。岡山駅のホームで駅前の基本、うどんをすする。実家まであと一時間。最後の各停に乗り込む。
漸く年が終わる。

1K記(07'12/30) 

今日、実家に帰省。今回は先に女房子供達が私の実家に帰省して女房の実家に彼らが帰ってきてから私が帰るという変則帰省。雪が降ると言う天気予報であるが、たまにはそんな雪の年末も良いのではないか?混沌とするモラルもへったくれも無い様な世の中ではあるが、この一年個人的には良い一年であったのではないかと思っている。例え単身赴任で1Kに幽閉される生活を強いられたとしても、やはり仕事上の人間関係に恵まれると言うのが良い一年であったと思う。

2007年12月20日木曜日

1K記(07'12/18) 


今晩は「オムそば」なのである。まあ別に特別何か難しい事をやるわけではない。いつもの様に冷蔵庫の残り野菜(キャベツ)に、冷凍庫の肥やしの豚肉(何時買ったものやったっけな?)と、これも凍らせておいた焼そば用の蒸しそば1人前。炒めて皿に移しておいて、卵を二個溶いて薄手の卵焼きを作ってやきそばを包むだけなんだが、、、、最後に失敗し、見事に見たとおりの姿になった。
まあ何を食っても、胃に入ってしまえば一緒なのだがね。
一人暮らしだと炒め物が多くなるのは、半ば仕方が無い。短時間で手軽に多くのものを食材に使えるからだ、これが煮物料理だったら、とても残業して帰宅してから自炊なんてのは中々出来るものではない。

と、、、、話題は食ばかり。
今日は職場でも、監査対応でホゲェーとヒマにしていたし、何をしたのだかよく覚えていない一日。

「ムフフともひねりも効かぬこの日記」 煩悩 お粗末!

2007年12月17日月曜日

1K記(07'12/16) 

飲んだのである。500mlの麦酒が18本、350mlの麦酒が2本しめて9700ml=9.7l。差し入れの吟醸酒が一升の約7割。土曜の夜の7時、病院を脱走してきたK君をはじめ、4人から始まり、日付変更線近くになって初めて会う若い衆も入って最大5人。K君が最初に迎えにきた奥様と帰宅、未明に若い衆が帰り、それでも残ったオッサン3人(30代のA君は倒れていたが)は朝、眼がさめると再び麦酒で乾杯し、鍋にご飯を入れおじやで食い、そこからまた転寝をして、15時に目覚めればTVで競馬を見、更に教育TVでオペラ鑑賞をし、サッカーの三位決定戦を見た所で早や日曜日の夕方。この日初めて外出し、近所の「○○園飯店」にてまたもや餃子で麦酒。オイラの庵に帰ってきて、またワインを三人でフルボトル呑みながら、あーだこーだとサッカーを見る。終わったのが日曜日の22時半。鍋も半分は体力勝負だ!けどこんなナーンにもせずにただ鍋を食い、酒を飲み続ける日も人生に一日や二日や、三日や四日は有って良いのではないか?と思う。 いや毎日やってるのも思白いのだが、、、ね。

2007年12月13日木曜日

1K記(07'12/13) 

















21時40分に山奥から帰宅して、洗濯機に四日分の洗濯物を放り込む。で、朝7時過ぎに出勤前に下ごしらえをしておいた「鮭とベーコンのホイル焼」を冷蔵庫から取り出しレンヂにセット、調理時間30分。その間に米一合を炊飯器にセット、味噌汁用の湯を沸騰ポットにて沸かす。22時15分、調理終了。何だか一週間に一遍はホイル焼をやっているが、まあレンヂが調理してくれるんで楽なんで仕方が無い。

それでも外食で済ますよりはマシやろう。


それにしても、メシの種である本業もこう効率的に進まんもんかいな。

全く新しい山奥の事業所で、アサインされた全くの素人を部下に業務の構築と言う仕事を単身赴任で請け負ってやっているのであるが、、、やらねばならぬことが多すぎる。

今後のルーチンの手順書や現場での報告書フォーマットなんぞを作りながら、やる気の無いオーナー会社相手の契約条件交渉、今後の業務に必要な機材の調達、そして価格競争力のある顧客への提示価格の原価策定、その他諸々。

こんだけの事をたった二人でこなせねばならぬのだ、打ち合わせ打ち合わせで時間が過ぎて、全く何も決まらない日ときたら反吐がでる。

2007年12月10日月曜日

1K記(07'12/10) 




単身赴任者にとって憂鬱な月曜日が始まった。今週は週末も自宅には帰らない。まぁ土曜日には仲間内で忘年会が設定されているから良いものの、やはり月曜日は憂鬱。
で残業して24時まで開いている生協に寄って食材を買って帰ったのが21時半。一週間の食材のために、人参とピーマンを千切りにし冷凍保存。キャベツを三等分にしラップでくるみ、米を炊くと22時近くだった。
今日は、楽をするために冷凍餃子とキャベツ、人参、ピーマン、椎茸に豚肉とベーコンを炒め、塩と胡椒で味付けした野菜炒め。冷凍餃子は油も要らず便利な代物だが、生協の製品だと思っていたら、悪名高き「○の素」の製品だった。「旨み調味料」にここでも騙されている。
俺の舌はたかだかそんな味覚しかないのか・・・?
まあそれはさておき、餃子と白飯はなんて美味い調和なのだろうか。
何は無くても餃子さえあれば、飯が三杯は食える。よほどの空腹だったのか、普通は麦酒を飲みたい展開だが、野菜炒めも含め二杯飯をペロリとたいらげた。
食事の横で点けていたTVでは、どこぞの偽装料亭の経営者であり、創業者の三女と言う強欲にまみれた様な糞の付くような婆ぁが、「父に申し訳ない!!」等と泣いている。泣いて謝る先は最初に責任をなすくりつけられた現場のパート従業員だと言うのがまったくわかっていないらしいなこの婆ぁは、、、
などと考えながら最後の味噌汁をすする。
この食べられる事の幸せに感謝。

2007年12月6日木曜日

1K記(07'12/06) 

情けない!のである。

残業した。遅くなった。最寄駅まで帰ってきた頃には23時を過ぎていた。けどだからと言って、飲んでもいないのに自炊生活を放棄するのは罰当たりなのである。軟弱なのである。単身赴任生活者自炊派?否、自炊派単身赴任生活者にとってはコンビ二でメシを買ってきて、レンヂでチンして出来上がりと言うのは、内心許せないのである。


とは言っても精神と肉体は相反、無意識のうちにコンビニで麻婆丼と生野菜を買ってしまったのだ。しめて825円。

自炊なら二日分の額である。
って単なるケチ!やんけ。
あーそうそう、それでもしっかり冷凍していたほうれん草を入れたうどんはしっかり作ってる・・・。 

2007年12月5日水曜日

1K記(07'12/05)


この日はJR立花駅の近所に見つけた立飲み屋で飲んでいたのである。で帰って23時過ぎから今週中に消費期限が来てしまう豆腐と冷凍うどんを昆布だしで煮た「湯豆腐うどん」を作って食す。
美味い!

2007年12月4日火曜日

1K記(07'12/04)



果たしてこの食べ物は何だと思ふか?即座に答えられる人は居ないと思ふ。

先週作った七菜しかない八宝菜を凍らせておいた餡を、消費期限(賞味期限では無い!!)11/29の焼蕎麦用の蕎麦にかけた「餡かけ焼蕎麦」なのである。それと味噌汁とご飯。この飽食の時代に、一汁一菜生活は続くのである。まぁそれが天邪鬼のオイラのポリシーですからね。

消費期限切れでも腹痛一つ起こさない焼蕎麦。
消費期限を偽って販売するのは、当然悪いことですが、そんなに大騒ぎする必要があるのか?と思う。産地偽装の問題でも対象は「食べられるもの」である。ゲテモノや毒を偽って食わされて不治の病に至った訳でも死んだ訳でもないワケで、、、日本人てそんなに飽食で罰当たりやったっけ?

とは言え、そんな消費期限切れや産地偽装を、高級ブランドの衣を被せて暴利を貪っていた上に、バレたら現場のせいにする「○場○兆」なんかは、当然会社として詐欺まがいの事をしたのだから罰が当たってしかるべきでしょうけど。彼等をのさばらせたのが飽食で「舌の肥えすぎた」世間様ではないのでしょうかねぇ?

2007年11月28日水曜日

1K記(07'11/28)

今日はわが父親の誕生日。齢82歳。大正末期に生まれ、戦前の暗黒時代、戦中は一兵卒、戦後は結核と闘いながら我等が兄弟三人を育てて暮れた訳である。若い頃は反駁し、なぜこの親の子供なのかとどうにもならない事を恨んだのもまた事実。だが、自分が年齢を重ね、子供を授かると親の有難味が心に深く深く沁みて来るのである。

夕刻、実家に電話。母親が電話口に出て来て、我が息子から父親宛に送った手紙が届いたと大喜び。つたないひらがなで書いた手紙を果たして解読できるのかは不明だが、義父の誕生日に合わせた女房の憎い演出に感謝。


それにしても、昨年末に脚を骨折して以来、歩行器でしか歩けなくなった父親の体の事が心配だ。最近は前立腺肥大が悪化し、残尿感で居ても立っても居られないらしいし、その上、母親によれば老人性の忘却が進み始めたとも聞く。何時までも、何歳になっても元気で生きていて欲しいと改めて切に思う。
で、九時過ぎに辿り着いた自宅にて、今晩の夕飯は鮭のホイル焼き。得意料理の(と言うかオーブンレンヂが料理してくれる訳だが・・)の一つ。今日は一昨日の残りのベーコン、昨日の残りの白菜、しめじ茸、ピーマンも共にトッピング。塩・胡椒を少々、30分余りオーブンで焼いて出来上がり。まあ食べ始めが十時過ぎになるのは仕方が無いか・・・。
晩酌を抜いて、休肝日とする。

2007年11月27日火曜日

1K記(07'11/27)

昨日の晩飯の料理途中、入居当時から前の入居者が置いていったと思しきIH調理器がうんともすんとも言わなくなる。電源コードが内部で切れているのか?と、ドライバーが無いのでナイフ&フォークのナイフでコンセントをばらして見るも原因不明。会社帰りに、早速今日安売り家電屋で買ってきたが、とんだ出費!(約8000円)

で、写真通り一汁一菜が夕飯の基本である。今日の献立は白菜、冷凍していた人参、残り物キャベツ、ピーマン、もやし、しめじ茸、豚肉約100g、七種入った八宝菜と豆腐味噌汁(即席)。省エネ型の人間なんで、この惣菜でご飯二杯はいけるのだ。

2007年11月26日月曜日

1K記(07'11/26)

三連休明けの月曜日、単身赴任者にとっては自宅の余韻が残り切ない週明け。毎週月曜日は飲みに行くことも無く、一週間分の夕飯の買出しを行う。それにしても、単身赴任一ヶ月目の生活費10万円にしたのはよく考えれば辛い。まあ女房に「いくら必要?Howmuch!」と聞かれ10万円で良いと答えてしまったのだから自業自得だが、、、卑屈である。







で、今晩はカレーである。一緒に帰っていた同僚が今日はカレーだと言ったのをヒントにした。と言えば安易だが、もっと言えば今週は献立のことをすっかり忘れていただけ!カレーの横でうどんの様に佇んでいるのは、栄養の偏りを考え、急遽冷蔵庫の肥やしになりかけていたキャベツとコンソメとベーコンで作ったポトフもどき。

けど薄味と胡椒がうまくマッチして結構美味いと思ったのはオイラだけか?


2007年10月11日木曜日

最高の役者か最低の馬鹿か

例の「負けたら切腹する!」と世界ランクでは大したことの無い次男坊が大口を叩き、セコンドである親父が対戦相手を「ゴキブリ」呼ばわりして、現役のこれまたボクサーである長兄が「(金)玉をつぶせ!」と反則を示唆したりするボクサー親子の事だ。

所詮、在京のキーテレビ局に作り上げられた「関西人Heel」なのだが、その役割を十分理解した上で報酬の為と割り切って、品悪い下衆な大阪弁で最悪に振る舞い、出来もしない大口を叩き、負けそうになったら反則技を連発し、親子四人で世間に対して斜めに構えている様な演技に徹しているのだとしたら、、、、これはHeelとしては凄い!プロ中のプロだと言えると思う。

演技に徹すると言うのは難しいものなのだ。我々の様な会社員も毎日が演技なのは百も承知、けどあそこまで演技に徹している人なんて居ない。まして彼等はHeelとしてのプロ。あそこまで親子でエゲツナイ演技を貫き通すのは、精神的にも、肉体的にもプロ中のプロ家族であると言えると思う。

だがしかし、、、、。親子共々、あの兄弟が本当にボクシングの世界でHeelではなくChampionを目指しているとしたら、、。正々堂々とセコンドである親父が言い渡して、長兄が介錯人であの次男坊は切腹すべき!でしょうね。
強くなりたいなら有言実行しか無いですからね、プロスポーツの世界は。

この日、私はドサで七時過ぎから大阪の事務所の近所の立ち飲み屋であの試合を見ていたのだが、、、。あの次男坊が負けた瞬間、立ち飲み屋の至る所で拍手が起こっていた。
私も関西出身者だが、言っておくがホンマモンの関西人はあんな「イチビリ」は嫌いやからね、ホンマ。

2007年10月1日月曜日

「うおつか流 台所リストラ術」 魚柄仁之介


女房が図書館で借りてきた中に面白そうな一冊があった。副題にはひとりひとつき9000円とある。飽食の時代、美食の時代へのアンチテーゼ。貧乏!ではない、楽しい貧しさ!いや或いは貧しさを楽しんでいると言うのか・・・今頃になってモッタイナイと言うのがもてはやされているが、この人はそんな流行とも関係なく、ライフワークとして貧しい「美食」を楽しんでいる。

で、、、影響されやすい我が家は、昨晩、本の通りに小麦粉100gに水40gを混ぜてビニール袋に入れてまず息子に踏ませ、次は私が踏み、そして最後は女房が踏みしめて饂飩を作り、早速夕食で試食。が、三人とも「余りコシがない」との結論に達して、今晩もまた今度は強力粉を50%程混ぜて、女房と息子でビニール袋を踏みしめて饂飩を作る。さすが強力粉、今度は讃岐どころか富士吉田の饂飩にも負けない「コシの有る饂飩」が完成。

女房に言わせれば、小麦粉原価1㎏100円で200gなので光熱費含め、一人当たり10円~15円程度でないか?だと!

うおつか流恐るべしなのである。
本来、貧乏は楽しいものなのだ。

少なくとも、ウチでは当分、休日は家族総出で踏みしめて饂飩!ってのが病みつきになりそう。

2007年9月23日日曜日

鯔の詰り

下期から単身赴任がほぼ確定。今まで湘南と兵庫の山奥の間を出張で対応していたが対応しきれなくなった。まあ会社としてはドサ手当てばかりで対応するより、月一回しか帰れない単身赴任手当てで対応した方が安く上がる等々様々な理由は有るだろうが、端的に言えば「人がいない」って事。もっと言えば鯔の詰りは・・・きちんと「組織としてあらゆる職種の人材のスキルセットをしておかなかったツケが回ってきたと言うこと」とちゃうんかい?と思う。連休初日の昨日、家族会議を開き女房の了解は得たのだが、何処に住むのか?生活費をどうするか?(財布を分ける?小遣い制のまま?)等々やってみなければ解らない点が多い。鯔の詰りは「単身赴任はやはり家族への皺寄せが一番大きい」と言う事。今までも単身赴任みたいな生活だったとはいえ、これから先を考えると半年が憂鬱である。

2007年8月23日木曜日

企業内ホームレスなのだ!

8/20(月)朝6:50に湘南の自宅を出て都内某所の事務所に出勤してから着の身着のまま。結局その日の内に仕事が終わらず翌朝3時に漸く一段落。昼から何も食っていない状態で一時間自席で座って仮眠を取っただけ。で、朝6:00発、希望の無いこの国の「のぞみ」一号で大阪に向かう。大阪の事務所で午後約5時間半の会議が終わって、またもや指摘事項を修正したら、日付は変わって水曜日の未明3:00であった。夜の夜中に開いている24時間食堂で恵比寿を一缶飲んで、その日は会議室をねぐらにして四時間の睡眠。これじゃぁまるで企業内ホームレス!で水曜日、またまた昼飯も食えず午後にまた約5時間の提案会議に嵌って、漸く帰りの「のぞみ」に乗れたのが20:00。で、漸くの夕飯が駅弁。月曜日家を出てから三日間着の身着のまま、異臭を漂わせながらも家にたどり着いたのは23:15。漸く落ち着いて自宅の寝床で眠るのにここまで64時間10分。

2007年8月18日土曜日

夏休みの思い出として
















予てから招待券を貰っていたお台場の未来科学館に息子を連れて行く。招待券と言ってもBMWが開発した水素動力機関の販促を兼ねた未来館の催事のタダ券を、たまたま良く行くバイク屋で偶然貰ったものなのだが、まあ夏休みの折角の思い出を兼ね息子を連れて見に行くことにする。で、新橋から「うみほたる」に乗って未来館に向かう。

















まずは、お目当ての水素動力機関のコーナーへ。BMWの宣伝の匂いプンプンなのだが、けどこの先、地球温暖化で車社会が生き残るためには水素燃料への早急な移行が必要だとは本気で思う。小手先の解決にしかならないハイブリッドやバイオエタノールなんかより水素社会への移行が必須だとも思う。それだけにBMWや松田の水素エンジンには期待している。課題はやはり液化水素燃料を保管し移動する為のタンクだ。バイクも早く水素難燃機関のバイクが出れば良いと思うのだが、、、課題は多い。

















ところで、未来科学館には初めて来たのだが、生物科学から地球科学、そして物理学、工学、ナノからミクロまで、人文科学以外のあらゆる科学の詰まった博物館であった。水素機関を見た後は、他のフロアへ、こちらは深海探査船「しんかい」の実物。
畳一畳程のスペースに寝転んで何時間も潜って探索をするらしい。フィールドワークと言うのは本当に大変だ。
















この日、一番息子が興味を持ったのがASIMO君。夏休みなので特別公開(演?)をしていた。ASIMO君が走る所なんぞ、子供たちは目を輝かして見ていた。未来科学館には全く前知識無く来たのだが、なかなかここは面白い!息子がもっと大きくなったらまた行くつもり。

2007年7月23日月曜日

忘れないウチに書いておく

筆不精だが、年初にまとめて読んで忘れかけていた記憶を半年後に遺して置く。 歴史の汚点を忘れたかの様な動きが高まる中、あの戦争を記憶から葬り去ってはいけない。
















「昭和史」1926→1945 半藤一利著 平凡社

半藤一利は初めての作家。文春上がりなので保守論客だろうと構えて読んでいたのだが、実は至極リベラルな人だった。この人も戦中派だが、大体あの頃を経験した人達が多く鬼籍に入る中、遺された時間で少しでも多くの「歴史の真実」を後世に遺して行って欲しいと切に願う。話が逸れた。日中事変とかノモンハン事件とか、戦争なのに「戦争」と言わず「事件」だと我々が習ってきた様に、自国の負の歴史を改竄することが、最大の自国の歴史への冒涜であると言うことを、リーダーシップが無く改憲しか頭に無いボンボン宰相以下、戦後生まれの保守政治家は知るべきである。







「十七歳の硫黄島」 秋草鶴次著 文春新書

細々と電気設備業を営む著者の現況を書いたあとがきを読み進むうち、不意に涙が止まらなくなった。生まれてこの方「あとがき」を読んで涙を流したのは実はこの本が初めてだ。群馬県の農家から海軍に入隊、その後通信兵として出征、赴任地は硫黄島。通信兵と言う特殊な職務上前線には出ず、只管後方でつぶさに見て書いた(描いた)記憶。米軍の大量の物量を以ってする上陸作戦に翻弄し、蟻の巣の様に張り巡らせた壕は友軍を受け入れる余裕すら無いと言う現実を知り、やがて米兵の上陸を眼前にし、玉砕の突撃命令が出て突撃の瞬間に手指を吹き飛ばす少年志願兵。そこからの「生きていたい」と言う彼の生への執着が、執拗で凄惨な敵の「あぶり出し」により地獄と化した壕の中で堪え、やがて捕虜として一命をとりとめる。涙が出たのはそんな戦争の記憶の上に、今の著者の平和な日常を思った時に不意に出た。平和な時代を生きていると言うことは本当に素晴らしい。人間一人ひとりに生きる権利は有り、国家に蹂躙される生などあってはならないとあとがきを読んで改めて思う。

2007年7月15日日曜日

台風一過

梅雨も明けやらぬ間に台風が来る。しかもこの夏最大級の台風。
と、聞いて前夜から内心ドキドキ。
二年ぶりの台風、どうなる事やらと気が気でない。
しかも、その台風通過中の最中に昨日封切で息子が「連れて行け!」と言って止まない
映画に私が連れて行くことになり、大雨の中、茅ヶ崎までクルマを走らすことになる。
その間にも台風が大荒れで大変なことになっているのではと思いながら二時間。
映画館を出て来てみると、すっかり雨は小止みに・・・
夕刻になると台風の目だろうか、、晴れ間も出た。

結局、進路はより東側を通ったので直接この地方には来なかった様だ。


いつもと違い、雲がせわしなく海上の台風を目指して流れていく様を何となく撮った一枚。

2007年4月8日日曜日

放棄

神奈川県でも知事選挙と県会議員選挙が行われたが、今回は20年前に権利を貰ってから初めて投票を放棄した。
環境問題、憲法問題、教育問題、格差問題、税金問題、まあ国政も県政も問題は山積み。
これからの子供たちの未来も考えると、当然棄権や放棄は本意でない。

だが、それでも行かなかった理由は、、、、。
選ぶ人がいない。
ただそれだけの理由。

県知事候補なんか与党系も野党系も変わらんじゃない。
かと言って他方の誰も入れないだろう人に投票して、抵抗票だと言っても自己満足だしね。

首都の知事に決まった爺ぃは、当確でまた吠えているが、こんな勘違いの地方独裁者を増長させてしまうのは我々の様な投票にも行かない無党派層なんだろうなと言うのは百も承知。
それでも行きたくないのだから仕方が無い。

真昼間から寝て暮らした。

2007年4月1日日曜日

花見で見る夢にうなされる


漸くと言うかあっという間と言うか兎に角、暦の上では4月。家から見える近所の山肌にもソメイヨシノが満開。朝から息子を連れ娘を負ぶって近所の公園に花見に行く。既に先週辺りから咲き始めていたが、恐らく今週が開花のピークだ。例によって今年のこの異常気象、1~2月の暑い暖冬と3月にぶり返した寒さ、そしてこの所の猛暑の春ですっかりサイクルが狂っている桜も山肌一斉に開花せず、まだら模様で咲いている。既に散りかけた木もちらほら見える。息子を遊具で遊ばせ、まだまだ乳飲み子の娘をベンチに座らせて花見をしていたのだが、何なのだこの暑さは。まるで蒸される様な暑さ。肌寒い位の季節が4月だと言うのに、木を良く見ていると陽炎の様な暖気流が見え春だからと思って着てきた木綿の長袖二枚にじっとりと汗が滲む。見上げると生命の誕生には欠かせない太陽がギラギラと眩しく照りつけている。公園で遊んでいた小学生くらいの男の子二人が既に半袖で走り回りながら「本当に夏みたいに暑い!」と大声で話していたのが印象的だった。時たま吹く本来のこの季節の肌寒い風と中和した体感気温に無理やり春を感じようとしている自分に気づく。次の瞬間、気持ちの悪い暖かさに気分が滅入り、只管憂鬱になる。何も知らない息子はうんていにぶら下がり「怖い、怖い、落ちる!」と連発し、何も話せない娘は眼を合わす度に言葉にならない奇声を発しながら微笑みかけてくれるのだが、その光景を見て次の時代のこの星を背負って行くこの子供達に本当に申し訳ない思いがした。思えば80年代或いは90年代から急速に我々は二酸化炭素を増やし続けた。尽きることの無い金銭欲の為に本来地球上に存在する理由の無い商品を作り続けそしてそれを購入し浪費をし続けた。ひたすら異性の気を惹くためにクルマに乗り炭化燃料を無駄に燃やし続けたのは或る意味、性欲の昇華か?そして果てしの無い食欲のため、グルメと称し僅かばかりの舌打ちとのど越しの快感の為に、アジアのそして中米の、はたまた南米の森林を伐採し家畜の飼料の供給のみを考え続けてきたのだ。その内に人類は超えてはいけない一線を超えてしまったのだと思う。恐らく世間が世の中の終末だと騒いでいた90年末くらいが恐らく、均衡を保っていた正常化と異常温暖化のシーソーが異常温暖化に傾いたのだ!!・・・とうなされていた瞬間、娘の泣き声で桜の木の下で我に返る。眼がさめた。だが夢か・・と思う瞬間、暑い気温に夢でない不都合な真実を知る。地球温暖化とは我々の親の世代と我々の世代が背負った重く暑い十字架である。

2007年3月10日土曜日

21年目の復活_低山徘徊パート3

 
 
 


先週7㎞歩いた後、流石に気になって息子に「山登りは楽しいか?」と聞くと「面白いよー」と返事が返ってきた。
まあ4歳のちびっ子なんで、ただ親父と遊べるのが好きなのか、或いは山登りの後の電車に乗れるのが目的なのかは解らないが、(多分そのどちらもだろうが)、とは言えただ一方的に親父が自分の道楽に子供を巻き込んでいるワケでは無いみたい。

で、この日は以前から気になっていた近所の森に行くことにした。
アプローチは歩いて20分程度なので、家から歩いて行こうと思ったのだが、女房が車で送ってくれると言うので甘える事に。。。
エコな道楽だと自画自賛している癖に、しっかりこんな所でエコな精神がエゴに満たされてますね、、ヘヘッ(いやぁ反省)。

で朝の10時過ぎに森に入る。歩き始めはそのまんま林道、日本のナショナルトラストの発祥とも言われている(らしい・・)のこの森だが、周囲は全く首都近郊の住宅街だけに、その中にあってこの光景はやはりちょっと変わっている。

地図も正確なものが無いので、この森の保護団体http://www.hiromachinomori.org/が出しているコピーの地図を持参して歩き始める。野原の様な場所を過ぎ、道に迷いながら中には本格的な山登りルートももあって自宅の裏山(の近く)にこんな場所があるとは思わなかった。
湿原あり、かなりでかい倒木が倒れた箇所もあったりとルートは七変化、最後は急登で上の方がかなりがけ崩れを起こしているコースも合って尾根沿いに出ると海が見えた。(ここはドラマロケ等にも多々出てくる海沿いの超有名な住宅地である)

けどここから他所様の家の庭を横切ることなくコースから脱出するのに手間取り、ひょっこり他所様の家の前に出て森を脱出出来たのが昼の12時半。当然、ここまで文句言わずに一緒に歩いてきた息子の目当ての「えのでん」に乗って帰途に向かうのであった。
総歩行距離:約2.5キロ(多分???)

2007年3月3日土曜日

21年目の復活_低山徘徊パート2

 

 



春霞、やや曇った朝9時半、やや遅めに近所のえのでんの駅まで車で送ってもらう。息子と海沿いを走る電車に乗って本日の低山徘徊のスタート。鎌倉駅から八幡様の境内を横切り、鎌倉宮に向かう途中で源頼朝公の墓に寄る。頼朝さんて遠慮深いのか、人徳が無いのか(そのどちらもあるのだろうか?)征夷大将軍の癖に墓が思ったよりも小さい、徳川家康とはえらい違い!

鎌倉宮で見つけたのは何と桜?(これ絶対桜やろ!)、地球温暖化は影響がここそこに!本当に心配になる。
自らを電車に模して「ぶぅーん」と奇異な音を口ずさみながら歩く息子と梅の名所と言う瑞泉寺へ行くも、既に梅は散り始めていた。

ここから本格的な山登りになる。岩むき出しの急登が続く。
やがて暫く歩くと尾根筋、この「北條家」と書かれた石標は旧いのか新しいのか?まさか鎌倉時代からここに立っていることは無いだろうが、、、。
瑞泉寺ではかなり悪かった天気も青空が見え、概して歩きやすい道が続いた後にこんな急登が待っていた。
この急登を抜けると「天園」と言う魅惑的な地名、峠の茶屋があり昼から缶ビールを傾けているオッサンの姿も、、、。
で、ここを過ぎれば鎌倉市最高峰の太平山なのだが、何と何故か尾根筋の道の右手には無粋な光景が、、。
岩ゴツゴツの太平山山頂の横はでかいゴルフコースのクラブハウスがあったのだ、流石に鎌倉最高峰なんで反対側の眺めは春霞でも由比ガ浜や稲村ガ崎まで見渡せ良い景色なんだけど、あの急登の苦労の後にあのゴルフコースとクラブハウスは見たくなかったな。

大平山の山頂でオニギリを食べてお昼とする。ここから先は多少、足場の悪いガレ場もあるが大体は尾根筋を歩いている内に、前回も歩いた尾根道に合流。十王岩から勝上献に至る途中で北鎌倉駅方面に下りる近道を見つけたので、息子に先導させる。
落雷で折れた大木とかを見ながら、下り続けた底から今度は最後の登り、しかも階段の急登。
今日はここまでかなり歩いたのだが、この急登が一番辛かった。

ここから先は住宅地を抜け、明月院の脇を抜け、もう歩けないとぐずる息子をなだめすかして北鎌倉駅に15時前に到着。

総歩行距離:約7キロ