2010年12月31日金曜日

The end of a story 2.

町課長様。

エールありがとうございます。
私にとっても、色んなことがあった一年でした。
そして大晦日に最も予期しない事が起こりました。

あと十年の計画表ですか?
私は残された子供達、特に下の女の子が成人になるあと16年の計画表を立てなければ行けません。

そして新しい自分の人生も斬り開かねば成りません。

男とは雄。
子孫を残せただけでいい存在である事を痛感する2010年大晦日。
あと6分で終焉。

The End of a story.

10年続いたある物語が、2010年の最後の日の今日幕を閉じた。

昨日までこんな展開になるとは思っていなかった。
だが自分で決めた道である。
後悔は無い。
怒りも起きなければ、涙も出ない。
ただ有るのは目の前の現実だけ。

2010年12月29日水曜日

今日も今帰ってきたところだ!

外資系金融には年末年始はない。ウォーターフロントのヘッドクォーターの連中はクリスマス&年末年始休暇で長々と休んでいるのに。センターの現場なんて奴等から見たらブルーカラーの極致やからな。
今、見ているメンバーはほぼ全てが派遣。うちの組織から入れたメンバーだけが正社員。
派遣メンバーの半分が外国人。東南アジア系が多い。彼らは学歴もあり、母国に帰ればエリートなんだが、、
他方、日本人は派遣で要はフリーター的な連中が多い。
外国人は日本で正社員になりたいから勉強熱心。だがウチの組織が業務丸ごと請け負ったんで正社員にはなれないのだが。
日本人メンバーには結構外国にかぶれた奴もいる、精神面だけが外国人みたいな奴もいて困る。
いずれにせよいつかは彼らに退職の引導を渡す役割なんでどちらが先に倒れるかなんだが。

本音では給料安くても安定求めるならウチの組織(口入れIT業)の息のかかった会社に正社員で入って貰うのが一番良いのだがね。

それにしてもさすがにアメリカ資本主義の代表企業。
ヘッドクォーターはふかふかのじゅうたん敷オフィスで広い机と言った労働環境だが、現場は狭い場所に何人も押込めて汚い。
やってる人間のモチベーションアップなんか考えてない環境やからね。
流石に椅子取りゲームの推進役のアメリカ金融業。

組織からは早くクビ切れ、案件取ってこいみたいに圧力かけられるし。

正直、今年は世知辛い年末である。

2010年12月26日日曜日

クリスマイイブ七転八倒(2010/12/24)

11月の半ばから時折、下腹部と右の腰に圧迫痛を感じていた。

この日朝から、再発。
朝食後から右腰部になんとも形容のしがたい痛みを覚え、段々痛くなる。
暫く横になっていたが耐え切れなくなり。その内にのた打ち回る羽目に・・・・
結石になった実兄から聞いた話だと、結石は最も痛いけど、尤も結石で死ぬことは無いのだそうだ。
昼前になって家で耐えるのに限界が来て病院の緊急外来へ、、、。
結局、その日は痛み止めだけを貰って帰ったのだが、、、

その二日後の日曜日の朝。
こんなのが、一瞬痛いと思う刹那、アレの先っちょから出てきた。




まるで勾玉!ホンマか?

2010年12月1日水曜日

ミッション開始

12月なのである。

今日から国内ではあるが、異国にてミッション開始なのである。
異国とは周りに祖国を異にした人が一杯いるということ。
公用語がエゲレス語であるということ。
色々な意味がある。

そんな環境下でのミッション開始なのである。
ただ、一つ訂正しておこう。
今度の「クビ斬り」ミッションの最大のテーマであり、最大のネックである「クビ斬り」ではあるが、、
客が要望したのは「コストカット」なのであって、正確には「クビを斬ってくれ」では無かったのである。
むしろ、現場のSBからは「連中のクビ斬ったら、現場が成り立たない」といわれている。

「コストカット」を実現するのは「クビ斬り」しか無く、売り上げと顧客の確保優先のしがない組織が
鉛筆舐め舐め、人の頭数だけ考えたプランが「クビ斬り」でしかなかったワケだ。

と言うことは自作自演の自爆劇なのである。
腹にプラスチック爆弾を仕掛けられた気分ではあるが、
仕掛けられた爆弾は、もう脱げないのは事実。

まずは、現場で彼らを手なづけるところから始めるしかないな・・・

2010年11月20日土曜日

「幕末史」 半藤一利 新潮社


今年の国営放送の大河ドラマは大当たりだ。

その「龍馬伝」もあと二回で本放送を終了するらしい。

かく言う私も「龍馬伝」は今年の初めから飽きずに見ている。

新しい世を作るという信念に従って何事も諦めない前向きな姿勢、他人と出会い、教えを乞い、考えを問い、そしてその経験を自身で昇華し成長していく姿が、毎日同じ様な生活にいい加減うんざりして閉塞感に打ちひしがれているこの国の住民にとっては羨ましくもあり、そんな姿が人気を博しているのだろう。

恐らく最終回、志半ばにして同志中岡慎太郎と「近江屋」で刺客によって夢を断たれる場面で物語はTheEndなのだろうが、、、、果たして龍馬亡き後、残った薩長土の志士達が彼の思い描いた新たな国家像を作れたかと言えば答えはNo!なのである。

既に放っておいてもやがて滅びるのが眼に見えていた徳川幕府ではあったが、一方の新政府で国家ビジョンを持った輩が果たして何人いたかと言えば、実は誰もいなかった。ただ「勝てば官軍」の状態でしかなかったのであると半藤一利は言う。
その中で同志江藤を斬り、西郷を嵌め、一人権力を欲しい侭にしたのが大久保利通であり、やがて太平洋戦争での敗戦まで連綿と繋がる薩長中心の近代日本の国家体制を作って来た元凶であるともいえる。
因みに旧体制を倒して政権についたものの国家ビジョンが無く迷走したと言う様子は、今も昔もあまり変わらない様だ。
後世の歴史家に「終末史」なんて書かれなければ良いのだが・・・。

2010年10月9日土曜日

必殺クビ斬り人

11月からの新たなミッションが決まった。

この春まで長年続いた現場処理の現場から入院のための戦力外通告を受け、拾ってもらったのが今の部署。4月から十数年にわたった現場処理のスキルを文書化し、クライアントに細々と売ったのが三ヶ月、その後は慣れない技術の、導入コンサルティングなどと言う肩書きを貰っていたが、仕事には向き不向きがあると言うのを実感した3ヶ月。

他方この一ヶ月来、組織は新たなクライアントから現場処理もわかる刺客を要求されていた。

クライアントの要求はただ一つ、「ハケンのクビを斬ってくれ」なのである。
そこでまた部署が変わるのである。
現場処理人の部署を転属させてまで請け負う今度のミッションは、「必殺クビ斬り人」。

相手が誰であろうと、相手に何と言われようと、脅されようと、泣きつかれようと容赦なく、非情を貫き相手のクビを斬って斬って斬りまくるしかないのである。

現場処理が本職なので、当然、「クビ!」を通告する立ち回りは気は向かない。

けどやるしかないのである。
脳裡には、恨みを買って電車のホームから突き飛ばされる姿が浮かぶこともある。

けどやるしかないのである。
やらねば、自分が「クビ!」なのだ。

所詮、この組織は「口入屋」。
所謂、おいらは「口入屋から来た刺客」。

いくらクビを切ったとて、手にする給与は変わらないのだが。。

2010年9月27日月曜日

運動会(2010/09/25)


9/23から四連休なのである。

で、この日は長男の運動会であった。

早朝は小雨模様の嫌な天気であったが、10時過ぎから台風一過の青空が広がり運動会日和。

一年生の時は、サッカー選手の癖にスタートで出遅れ50m走で屈辱的な負け方をしたので、今年は期待をしていたのだが、、、蓋を開けたら二位だった。

「一位で無ければ競走ではない」と冷ややかな見方もあるが、まあこれは長い眼で見るしかないだろう。かつて(と言っても中学時代だが)陸上部だった私も低学年では速いワケではなかった。

足が速くなりはじめたのは高学年になってからだ。

まあ今では四十過ぎのオッサンなので、自分の足で走るのもしんどいのだが。。。

2010年9月8日水曜日

せいけんこうたいのしょうたい

みんしゅとう、正体みたり「か〇お〇〇」

by びょうにん21めんそう

2010年8月13日金曜日

2010 元帥の運転手の夏 




2010/7/24 

いよいよ始まった2010年ロードムービー。今年は女房子供はオヤジを追いかけて来る様に飛行機でやってくる。と書けば良く聞こえるが、実際は女房子供がVIP待遇で飛行機で目的地に到着するのをオヤジは先行してクルマで迎えにいくと言うのが正しい。まるで厚木に降り立つマッカーサーを敗戦国家の政府のお抱え運転手が迎えにいく様なモノである。とは言っても例えクルマとてオヤジ一人で長距離移動できるとは「久々の役得だ!」と考えるのは、既に私は勝戦国の謀略に洗脳されているのかも知れない。なーんて、暢気なことを考えながら箱根を越えているのである。この頃は旅の始まりなのでこんな画像を撮る余裕があったのだ。家を出る前、ガソリン代として女房から貰ったのは僅か1万円なので(例えETCつけたからと言ってガソリン代も割引&後払いなんてのは無いのだが、、、)、ちょとでも節約しようと窓を開け放して空調を入れずに沼津から東名道の人となり静岡位までは我慢して走った。涙ぐましい庶民の努力を、飛行機に乗って高いところからやってくる時の権力者は判らないのは世の常である。この晩は久方ぶりに駅前で呑めた。心行くまで飲んだ。気がついたらアジトの畳の上で汗だらだらで寝ていた。

2010/7/25

運転手は実家方面に向けて移動。そしてマッカーサーは夕刻に中国地方に降り立ったのである。
実家着。まあいつもの夏の風景だが、今年は実家の庭の蝉が圧倒的に少なかった。暑すぎたのだろうか。


2010/7/26

どこかに行くつもりが、元帥の気が向かなかったらしく中止になる。それにしても「眠い」と一言言って、仏壇の部屋に一人で歩いていき、ゴロンと一人で寝転ぶ4歳の娘に元帥の怖いもの知らずの血が流れているのを見た。普通、仏壇は怖いはずやろ。この子はほんま面白いな。

2010/7/27

実家を出て、義母を拾って海を越える。与島をぶらぶらして青い国、四国へ。琴平のあの参道の下の饂飩中野道場?(なんか敗戦国家の士官学校みたいな名だ・・・)で上陸最初の饂飩を食う。だだっ広い讃岐平野を走り、山を越えると町課長の故郷、阿波である。四国三郎の流域の県営施設(さすがの役所なのである。立派な箱物で、非常に安かった、にも関わらず結構すいてました・・)に泊まった。

2010/7/28




朝から雨が降ったり止んだり。河原の広大なグランドで息子のサッカー練習相手トナル。

昼はやはり饂飩を食って、支流の川へ。怖いもの知らずの娘は、流れる川も怖がらず、背中を下に川面に浮かんで喜んでいた。女はこの年齢から大胆で強いのである。

2010/7/29

早々に帰る元帥一同を見送る日。生まれて初めて讃岐の善通寺に行った。本堂の下をくぐる胎内めぐりと言うのがあって、真っ暗な中を手探り(とは言っても壁伝いに歩いていけば出口に出れるのだが・・)で歩くのは面白かったが、ちょっと怖かった。漆黒の闇の中に身を置くと言うのは、本当に何年ぶりだろうか。大地の上の空港から元帥閣下は帰国の途につかれ、義母を乗せて関西方面に移動。この晩、英社長誕生を知る。

2010/7/30

関西から、運転手は移動。自宅着19時。何だ言っても帰りは11時間半かかった。疲れた。敗戦国家の運転手はもう懲り懲りです。

2010年8月12日木曜日

金魚 合掌!

寝静まった自宅に帰宅。飯を食おうと、リビングに上がり電気を点けるといつもとどうも雰囲気が違う。何か足りないと思ったら金魚の水槽がなくなっていた。城山三郎では無いが「そうか君はもう居ないのか」と一人でつぶやいていた。子供が近所の夏祭りの金魚すくいで取ってきた7月の下旬から我が家のの一員であったが、ここ数日は一時の元気も無く水槽の隅でじっとしていることが多かったから心配していたのだが、、、。そうか遂に逝ってしまったかナポリ(金魚の名)。実は丁度、一週間前の8/7、これも子供が夏祭りの金魚すくいで取ってきたペコリ(金魚の名)が急逝したばかり。ペコリは娘が生まれる前から水槽に住んでいたので、かれこれ4年近く30cm四方の水槽で生きていたワケだ。最初は3cm位の真っ赤な金魚だったが、最期は10cm位まで成長し赤色が淡い橙色に変色した立派なフナだった。恐らくこの暑さが原因で水温が上がり、酸素が欠乏して死んでいったのだろうが、立て続けに金魚達が昇天し、何だかポッカリと心に穴が開いてしまった気がする。命あるものは必ず死ぬのが運命なので、いつかはこの時が訪れるのは判ってはいたのだが、あんな小さな生き物でさえ生きていた命が絶えると言うことは偲びがたい事である。合掌!

2010年8月7日土曜日

灯篭流し















夕方飯を終えてから、峠の向こうの夏祭りに行く。峠の向こうって言ってもバスで3分なのだが・・(歩いても15分)。夏祭りの楽しみと言ったら花火以外は食うことなので、氷を食って、とうもろこしを食ったら腹いっぱい、腹ごなしにプラプラ歩いていると、灯篭流しをやっていた。女房が子供に「死んだ人が天国に行くまでの間の49日目、三途の川を渡るのに灯篭に乗っていくのよ、渡った先は天国でその後は何に生まれ変わるかわからんねん」と言った後、「ホンマかいな、まあそんな話やったと思う」やと。まことしやかに言うものだから、子供も一緒に、一同苦笑!「まあ仏教行事には違いないから、エェんでないの?」とオヤジも似たようなものだが、、、。信心深い仏教家からしたら呆れてモノもいえないだろうが、私の実家は代々の真言宗の寺の檀家である。まあ子供心には夏の灯篭流しの思い出ができたからエエとしとこか、。

2010年7月24日土曜日

えきまえなべ

ひさしぶりに仲間とのんどるで。

やはり駅前まんせーやで。

500マイルりんどうやで。

びょうにん21めんそう

2010年7月23日金曜日

2010夏休み開始

明日7/24(土)から夏休みゼヨ。
今年も往復2000km運転手ゼヨ。

2010年7月18日日曜日

夏休み前夜

今日から三連休。休みなのに朝の七時には起床。朝食後に女房の指示で家族会議。「今日、何処に行くか?」と言うのが議題。提案としては①隣町の海浜公園のプール(駐車場が高い!)、②これも海沿いの市民プール(子供はタダ!)、③いっそのこと海(もちろんタダ)、④岬の先端の近くの農場公園(入場無料だが、駐車場代1000円)。の四つ。子供たちの意見で①、②は早々に却下になり、③は何故だか「海は海の日に行くものだ!」と何とかの一つ覚えみたいに譲らない保守的な息子(高々七歳で・・・)の意見でこれも没!で、④になる。朝の涼しい内に息子のサッカーの練習に付き合い、早めの昼食を食べて昼前に出発。海沿いは混んでいるかと覚悟していたが拍子抜けのガラ空き具合(良く考えりゃ他の人達は遠くに遊びに行ってるワケね)、約一時間ほどで農場公園に到着。ここは派手なアトラクションとかがない代わりに、適当なプールみたいな水辺と幾つかの滑り台と、木の遊具と、動物が居るので子供たちには人気が高い。子供達は水辺で浮輪に乗って大はしゃぎ。親は水辺で三方開きのテント立ててそのまま横になっていればついウトウト。梅雨明けして夏本番だと言うのに、海からの風が吹いてきて猛暑さはまだ感じられないのが幸い。その後は何て事のない木製の遊具で飽きるまで遊んで、最後は有料のグラススキーで一日を締める。まあ親は見て居るだけなんだが、なかなか良心的な施設ではある。暑くないとは言いながら、手と足はしっかり日焼けしましたしね。最後に土産物屋で娘にしっかり野口英世一人分の縫いぐるみを買わされたのは痛い出費だったが(娘よ頼むから給料日前のオヤジから金を毟り取るな!)、帰りは様子見でR134に乗るも、渋滞は殆どなく、横横に入る事もなく自宅着。来週末からの夏旅を考えて、先週末に折角つけた「利権の温床ETC」を使う機会に恵まれなかったのがちょっと残念。

2010年7月9日金曜日

けんりはこうしせなあかんで

2010/7/9

ぜんりょうなこくみんのみなさまえ

しゅうまつは、

「トリスをのんで、ハワイにいこう」

もとい

「ハガキをもってせんきょにいこう」

「せんきょにいってはくしでだそう」

ばいこくどのこいずみじゅんいちろうのドラむすこがいうてたやろ。

「やくにんにじゆうにつかわれたのがじみんとう
やくにんをじゆうにつかいこなせないのがみんしゅとう」

ちごうとったか。

ワシらからみたら、どっちもおなじ穴のむじなや。

みなさんも、とうめいなんかかいたらあかんで、はくしでだしてや。

びょうにん21面相 

2010年5月29日土曜日

マン・マシンの昭和伝説(上)(下) 前間孝則 講談社文庫



戦前、航空機産業は国内随一のハイテク産業であった。
軍国主義の世の中で所謂航空機は兵器としてのそれでしかなかったが、生きるか死ぬかを争う航空機には技術の粋をつぎ込む必要があった。
またそれは同時に航空機技術者が技術を突き詰める事でもあった。
中島飛行機の長谷川龍雄、中川良一、中村良夫。
彼らが手塩にかけた結晶が日本航空界の傑作中の傑作と言われたエンジン「誉」である。
しかしながら、「誉」は当時の無責任体質の軍の「オクタン価の高い原油をいつでも確保する」 という空約束を前提に作られたエンジンであった。
そのため、オクタン価の高い原油の確保が苦しくなった大戦中盤には、改良に告ぐ改良を重ねても本来の性能を発揮できない不運なエンジンでもあった。
やがて、アメリカが1万メートルと言う高々度を飛ぶB29を開発する。
当時、高々度は日本の航空技術をもってしては未知の世界であった。
エンジンには過給機を搭載し、気密室を備えた与圧システムを持つB29は、高々度技術を持たない日本の戦闘機をあざ笑うかのように頭越しに日本各地を爆撃していく。
後発メーカーとして、機体中心のメーカーであった立川飛行機の田中次郎は、気密室の開発に持てる限りの技術を注ぎ込む。
だが、時は既に材料の確保もままならないところまで追い込まれていた。
やがて気密室を持った来はキ94というコード名でたったの一機完成をするものの、時は既に遅かった。

疎開、そして度重なる空襲、そして1945年8月15日・・・敗戦。

占領軍の政策として、航空機産業が封印された戦後。
今まで空をとぶ航空機のことだけ考えてきた、長谷川、中村、中川、そして田中。
それぞれ異なる人生を再び歩み始めていたが、彼らの行き着く先は当時、まだ航空機に比べれば
技術レベルも低い自動車産業であった。
だが、示し合わせるわけでなく、結果として彼らの様な航空機技術者が自動車産業を選択したのは偶然とはいえ、敗戦国ニッポンの産業界にあっては、幸運のめぐり合わせであったと言うことだろう。

碌にシャーシの負荷計算技術すら無かった自動車産業。
その世界で長谷川は豊田に席を得、やがてクラウン、パブリカ、カローラなどの豊田を不動の位置に押し上げた名車を次々と生み出す。
その技術者魂は常にかつて情熱をかけた航空機のことを考え、その 技術を新しい情熱の対象、自動車に注ぎ込んだ結果である。
他方、中川は旧中島飛行機系の富士精密工業で細々とエンジン技術者を続けていたが、旧立川飛行機系の流れを汲む、田中の居た たま電気自動車と合併、新たにプリンス自動車の技術者となる。
やがて彼らは技術のプリンス自動車をグロリア、そしてスカイラインで業界第三位の地位までのし上げる。
更に技術を追求した結果が、日本GPへの参加、そしてプリンスR380の開発であった。
だが、やがて彼らは不本意ながら国策から日産と悲運の合併をする事になる。
そして中村。
彼はまだ町工場に毛が生えたような新興二輪メーカー本田に職を得ることになる。
強烈な個性の本田宗一郎の下、技術論で対立しながらも無謀とも言われたF1に挑戦し続け、やがて世界を相手にF1の本田を率いることになる。
そしてまたあのCVCCエンジンの開発に持てる技術の全てを注ぎ込み成功させるのであった。
彼は晩年、自力では歩けない程になっても、まだ自動車業界のご意見番として活動していたのだ。

今や自動車産業は敗戦国ニッポンを戦後支え続けた屋台骨産業となった。
その技術をほぼゼロに等しい状態から作り上げてきた彼らの技術者魂。
或る意味羨ましくて、そして語り継がれなければならない魂だと思う。

2010年5月15日土曜日

サッカー観戦

朝から息子の練習の相手をして、午後は三ツ沢まで車で送ってもらい横浜F・マリノスの試合を見に行く。
生粋の阪神タイガース馬鹿なんで、自分の中では見るのは野球と決まっていて、生まれて初めてプロサッカーを生で見たのは昨年。
と言うことはまだサッカー初心者なんだが、今年も息子が喜ぶ顔を見たくてF・マリノスの応援に行く。
三ツ沢球技場は選手が真近に見られてF・マリノスの本来のホーム、日産スタジアムより好きだ。写真はコーナーキックに向かう、MF中村俊輔。
こんな近くで見れる!ってオイラちょっとミーハーかなぁ。




で、こちらはDF中澤。
因みに試合は終始ボールの支配率が高かったF・マリノスだが・・・
後半2-1でリードしたものの、残り10分で京都に追いつかれドロー!
まあ息子には思い出に残るいい試合だったのでは? (確か、昨年見に行った試合は川崎に負けたのだった)
帰りも買い物帰りの車に拾ってもらって、ラクチンな観戦であった。

2010年4月18日日曜日

ノモンハンの真実 古是三春 産経新聞出版













ノモンハン事件とは太平洋戦争前に起きた満蒙(日ソ)の国境争いとは知っていたが、自分自身では国境兵同士の散発的な紛争と言うイメージを持っていた。
だが実際は関東軍の人的損失約二万一千人余り、部隊の約77%を失った壊滅的な負け戦=戦争なのである。
太平洋戦争終戦後、何年経ても意図的に「事件」と教える所にこの国の「自らの負の歴史を真正面から捉えようとしない逃げの姿勢」が見え隠れして情けなくなる。

関東軍のノモンハンでの失敗の要因は、、、

①思い込みによる戦力の正当な評価を欠いたこと
歩兵兵力が戦闘の主であり、近代兵器の戦車は補助兵力でしかないと言う偏見、不合理な思い込み(欧米とは全く異なる発想)。
②精神主義の横行
戦車と歩兵を共に行軍すれば歩兵の速力が高まり速く進軍できると言った根拠の無い精神論が軸になって作戦が進められたこと。
③後方支援の軽視
作戦上極めて重要な意味を持つのはハルハ川西岸への渡河しての越境攻撃であったが、渡河に旧式の使えない資材しか割り当てらず作戦遂行に難渋したこと。
④上層部の現状把握の不足
関東軍司令官辻政信の思い込みによる「ソ連蒙古両軍は退却傾向にある」と言う事実誤認がまかり通ったこと。辻は自ら偵察機に搭乗し偵察しつつもこの間違った情報を流し続けた。
⑤幹部の責任逃れ
ハルハ川西岸への越境攻撃を勝ち目なく退却を迫られ「作戦目的は一定の成果あり」等と自らの作戦計画の無謀さを棚に上げる幹部の責任逃れ。

これらの要因から、前線の兵は戦車兵も歩兵も訓練しつくされた正確さでソ連兵を驚嘆させ、脅かしながらも、やがて力尽き敗走するに至ったのであった。

にもかかわらず、学習しない組織「日本軍」はこの失敗の後、太平洋戦争に突入。
まともな失敗の検証も無いままにガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄と無責任な戦闘を繰り返し、負けるべくして負け、無数の兵と罪のない非戦闘員の貴重な命が奪われるべくして奪われる結果を招くことになるのである。
何ともやりきれない話だ。まさに組織犯罪である。

だがしかし、以上の様な失敗の要因は、そっくりそのまま今の日本企業にも当てはまる話である。
どうやら、この国は現場の一人一人は勤勉で真面目で結果を生むのであるが、「合理的かつ戦略的な行動、判断」な組織行動が不得手な様だ。特に企業経営ではその傾向が強い。

自国の負の歴史に学ばない、この国の弱点である。

2010年4月7日水曜日

配転流転

4/1期替わり。

丁度一ヶ月ぶりの社会復帰。
出社したらいきなり失効厄員の本部長が面談するという。
いよいよ戦力外通知か・・・・?

開口一番、他部署への配転!であった。

まあ、長い間苦労ばかりで疲れたんじゃない?ちょっとは外の空気吸ってみれば?っと好意的に受け取るか?
お前はもう中では要らねーんだょ!と捨てやがったなと懐疑的に受け取るか?
どちらとも取れないことはない。
が、これでまた立呑屋の店主(オヤジ)になりそびれた。

まあやる事は一緒だが、内向きのお守か外向きのお守かの違いである。
因みに今度の部署は前期末で辞めたY課長の出身部署であったのだ。

人が病めて、他人が辞めて、病み上がりの人が辞めた他人の元の鞘に収まる。

こうやって今期もまた始まったばかり。

2010年3月30日火曜日

びょうにんするのもうあきた(しゅうけつせんげん)

2010/03/27
しゃばはやっぱりエエもんや。

しばらくアジトでせいようや。

びょうにん21面相


2010/03/21
らいしゅうたいいんすること決まったで。

思えばながいよおでみじかいにゅういんせいかつやった。

げんいんはまだはっきらわかってない。きのうもいしゃがきて「ウィルスかんせんしょうを疑っとる」いうてかえりよった。けっかくのくすりはまだのまなあかんそうや。

いったいどっちやねん。
まあしゃばに出れるのはエエことや。

そしきにかお出すのは四月からになる。かお出してもエエことは一つもないけどな。

びょうにん21面相


2010/03/17
クビひきさかれてからいっしゅうかん、今日いきなりかくりかいじょでおおべやにうつされたで。

きのういしゃがきて「けっかくかどうか疑わしい」いうてかえりよった。ワシからしたら奴らのはんだんのうりょくの方が「よほど疑わしい」けどな。

たいいんの話も出始めとるで。

けっかくであろうが無かろうが、らいしゅうあたりにはしゃばに出れそうや。

なかまにはしんばいかけたが、そろそろびょうにんやるのもあきてきた。

びょうにん21面相


2010/03/12
きのう、また生きたままリンパ節ぬかれたで。

おとといのばんにいしゃがきて、どうしてもやらなあかんいうもんやから「四方、しかたありまへんな」いうてひきうけたけど。あんなもんやるもんやない。

げかのしゅじゅつしつつれていかれて、ねかされて、くびすじきりさかれて、いちじかん。いしゃ二人がかりでやっととってたで。

こんなんやさかい、今はくびがまがらんのや。まげたらいたい。しゃっきんのせいちゃうけどな。

たいいんしたら、せんりょくがいつうちがくるやろうが、くびきられるのはこりごりや。

きったあとがいたすぎる。

びょうにん21面相


2010/03/10
ゆうじんの反骨鬱士がええこというとる「人生あるのは鍋だけである」

いみのふかいことばや。人生のもくてきは鍋につきるわけや。

いつかしゃばにもどるまで長いじかんがあるよって、身のふりかたかんがえなあかんとおもとる。

そのままそしきにもどっても前のよおにきあいはいるとはおもてない。どうせそしきも二年後には身うりや。今までのわしのおもいもそこでジ・エンドや。

かくりせいかつから生きてしゃばにもどれたら、わしじしんの鍋つくりなおすことからはじめなあかん。

きょうは「しみじみしじみ」みょうにまじめやで。

びょうにん21面相


2010/03/09
つくるやさいはむのうやく。クスリづけでないやさい。

みずな、はくさい、きくな、だいず、ぶたもとりもかわなあかん。みんななべのざいりょうや。とりのクビ切って逆さにして、ぶたのあたまどついてころして。

クビ切るのはろうどうしゃ諸君のクビ切るほうがはるかにヤサシイいうのがようわかる。

しゅうかくできたら、なべでえんかいや。ビールのんで、しょうちゅうのんで、にほんしゅのんで、ワインのんで。ほとぼりさめたらそとのたき火にあたりながら水のんでウィスキーをかるく一杯のむ。いしかわさゆりみたいなみぼうじんがおってな、うたうとうてくれる。

ギターはいっしょうひけんやろうが、うたやったらしぬまでうたえるで。

そんなんやっとったら心あらわれてワルやめなあかんな。

びょうにん21面相


2010/03/08
おもろいことを思いついたで。

わしがかんちしてあいぼうとふたりでそしきのきつえんしつにいく。

そこには逃げ足執行役員とか、おおじさま部長とか、マニュアル人間育成課長とかがケムリあげとる。

わしがそこでひどくせきこむ。

あいぼうが「だいじょうぶか?」とこえをかける。

わしはひとこと「そうや、わしけっかくやった、きんまきちらしてたら、すんまへんな」

いちどういやなかおする。

すかさずわし「そうや、たばこやめたんやった。そうやった。ゴホっゴホっゴホっ」とまたひどくせきこんでふたりでたちさる。

のこされたヤツらきぶんワルいやろな。

そのかおがみたい。

しかもそのあとで、マスクしてしろいぼうごふくきたあいぼうがきつえんしつにはいってくる「ほけんじょからきた、○さわです。じょきんします」いうてさっちゅうざいまきちらす。

ていぎんじけんやがな。

びょうにん21面相


2010/03/08
かくりせいかつはほんのうでしかいきてない。

きほんてきにねるしかない。すいみんはよるひるなしや。ゆめはよおみる。きのうはゆめの中で、わしはくうれいのGPzのななはんにのっとった。

めしはよおくう。いしゃにかよたりゆうは「しょくよくふしん」や。いまはだされるめしはかんしょくや。うまいめしではないけどな。ぶたばこの中のめしよりはましやろ。

あとはせいよくか。わしは「キャタピラー」のぐんしんみたいにおうせいとちゃうからな。あまりおきへん。ナースとねんごろになるわけもない。だいたいここのナースは、のび太、あき竹城、田嶋きょうじゅみたいなんしかおらん。虎雄くんにもっとしつ上げるようにいうとかなあかん。

さんしょく、すいみんつき、ナースつき、かくりせいかつ。いまならちゅうせんで一名さまにけんりさしあげるで。

きぼうしゃぼしゅうちゅう。

びょうにん21面相


2010/03/07
きょうはまじめなはなしする。

なおすクスリは四しゅるいや、どれもめとしょうべんとひふにふくさようがでる。

さいしょのひとつきクスリのみつづける。うんわるく、けっかくきんがはいににげたら「はいけっかく」。こうなったらワルとしてはおしまいや、くにのしゅうようしせつにきょうせいそうかんされてガスしつおくりで、ジ・エンド。

うんよく「はいけっかく」にならんかったら、たいいんして、アジトでひとつきせいようや。

そしきにもどれるんは、さんかげつめ。そのときには、すでにせんりょくがいで、ジ・エンド。

そんなのいやや、いうてまともにクスリのまんかったら、けっかくきんが「たいせいきん」になって、クスリがきかへん。けっきょくいのちがジ・エンド。

どうやったってうまくいかんびょうきやで。

びょうにん21面相


2010/03/06
けっかくはむかしからゆうめいじんがなるびょうき。

おきたそうし、たかすぎしんさく、まさおかしき、ひぐちいちよう、くにきだどっぽ、いしかわたくぼく、そしてびょうにん21面相。

よおしぬのは「はいけっかく」、さいごにくちからあかい血はいて、ジ・エンド、ぜんりょうなにほんじんがすきなしにかた。

わしにはあかいしょうべんがでた。いしゃにみせたらクスリのふくさよう。「はいけっかく」ではなさそうや。


びょうにん21面相


2010/03/06
いしゃとはなしおうたで。
まわりかこんで「いうこときかなあんた死ぬで」とおどしおった。
あとは「かくり」や、かっこよういうたらキャリアやさかいな。
だからわしきょうからひとつき、檻のなかや。
ラリぴーとおなじクスリづけや。
にんげんやめたら、なまえかえるさかい。
おぼえといてや。

びょうにん21面相


2010/03/05
いしゃにレバーのいちぶ生きたままぬかれたで。
あいつらほんまにざんこくや、わらいながらはりさしこんでレバーぬきおった。わしら、むかしからわるいことぎょうさんしたが、ざんこくなことだけはせんかったで。
よのなかでいちばんざんこくなんはいしゃや。
はよたいいんしたいで。

びょうにん21面相


2010/03/05
いしゃにまたこつずいぬかれた。
こんどこそしばいたろ!!おもたけど、あいつらげんいんつきとめたんで、虎雄くんの禿州会ゆるしたる。
げんいんは「けっかくきん」や。
ながいとうびょうせいかつのはじまりや。
またげんきになるまでまっててや。

びょうにん21面相

もうすぐ舞台復帰

一週間前、漸く娑婆に復活。
相変わらず投薬治療は進んでいる。
この一週間は自宅療養、医者は職場復帰可能なんて診断書に書いていたが、
「行く気がない」のだから仕方がない。
とは言え、一週間家で遊んでいても何も変わらないので、
そろそろ職場復帰する事にしよう。
4月1日からまた寂れた劇場で演技に勤しむ事にしよう、3月中は充電、まだ寒いし。

因みに、病院に監禁中の記録をまた掲載しようと考えているが、結構面倒くさい。
まあそのうち・・・

2010年2月14日日曜日

反逆とスポーツは相容れないわなぁ普通

スノーボードは反逆のスポーツだとか言って服装で注意された馬鹿が居たが、そもそも反逆のスポーツなら権威の象徴みたいなオリンピックなんかに出るのがおかしいわなぁ。「五輪だからと言って特別視しない」なんて言うても、アホな受け答えやわなぁ。それなら何で世界選手権とかワールドカップとか、結局ナショナリズムの道具に使われる権威付けの大会に出るんかね?何でわざわざ試合のために世界に出て行くんかね?反逆するならそこは疑問に思わんのかい?結局、自分自身も利権まみれのスポーツ界で利用されて、順位とかにこだわっているのにね。そもそも反逆とスポーツは相容れんわなぁ普通。ただ、こんなことに眼くじら立てる世の中もアホやわなぁ。オイラも含めて。もっと話題にすることはないんかい。。。

2010年2月12日金曜日

どんでん返し

午後、担当疾呼厄員に心中相手の説明。説明用pptの最後の頁、「課題事項」の1センテンスに山中の要員配置について考察を載せた。「これ何のこと?」って奴が乗ってくれば、この私であることを説明してやろうと思っていた。所謂「あんたが行けと言えば行くぞ!最終的にあんたのOKする心中相手と!」と言う意味だったのだが、、、。奴は言う「この課、残そうかと思ってるんだよね」だと。 しかも今回のスキーム変更と同時に管理範疇を拡大するのだとものたまう。

いきなりどんでん返しだ。
今まで会社名も経営者もころころと変わってきたが、その間苦節12年、ずっと訴え続けた現場処理の横展開。しかも事業組織とは切り離され厄員直轄の組織化だと。。。 持株会社とのスキームの変更がこんなところに波及するのか?と言う驚きと、
遂にこいつら眼が覚めたのか???やはりY課長が辞めるのが痛いんだろ!(けど遅いゼ!)っという反発心が頭を横切った刹那、「怪人二十一面相」みたいな面の奴の細い眼がギラッと不気味に光る。

「一年で成果出ないと、皆元の木阿弥だからね!覚悟してね!!あーそうそう君が仕切ってね!・・・・」

結局、皆で心中なのか、、、
これもリストラの一環でないのか?今の気持ちは非常にブルー・・・・・・・・・・

2010年2月9日火曜日

心中相手の査定

朝から乱脈不動産投資の遺産「御本社様」にて協力会社のヒアリングおよび査定を立て続けに二社実施。一方は老舗だが現行組織での実績は既存の関東の片田舎だけ。ただ全社上げてのバックアップと言う提案に真剣度を感じる。他方は親方屁の丸企業、教条主義的で融通が利かない、まるで旧ソ連邦の役人みたい。ここの連中は技術者はノウハウを多数持ってるくせに営業の客に対するアピールがない。しかも現場処理に近い、エエ歳こいたオッサンほどマニュアル人間の典型が居る。自分自身で一応の結論を得て、夕刻に担当疾呼厄員に中間報告。決戦は金曜日!!

2010年2月7日日曜日

第二ラウンド

年間の自殺者3万人、失業率5%。この国の将来Hopeless。
にもかかわらず国会中継では未だに政治と金で政権政党と野党に落ちた旧政権政党が本質からかけ離れた茶番政治劇を繰り広げている。政権交代したからって、いい年こいて所詮お母ちゃんから何億もの小遣いをもらえるオッサンに、食うや食わずの生活をしている他人の暮らしぶりを変えられるとは思えないし、未だに政界ブルドーザー的なゼネコンの金にまみれたやくざみたいな親分さんに暮らしぶりを変えられるとは思っていない。
とは言っても、ここまでこの国を滅茶苦茶にしたのは何を隠そう旧政権政党。この国の政治は本当に貧困だ。
この二大政党、奴等が何をしたいのかビジョンが見えない。
それにしてもこんな閉塞状況で、本来なら真っ当な第三極が出てきてもいいのだが、、、。

で、こんな経済状況下なんでわが社の組織体制の将来も危うい。
社員兄弟の一件から、急に羽振りが悪くなって、最後には投資先をラブホテルにまで手を広げていたと言う旧N村出身の虚業家経営者の数々の不動産投資の乱脈振り。こう言うのを「品格がない」と言うのだが、その開いた口を塞ぐ間もなく始まったのがオヤジ狩り。40歳以上のオヤジは再就職探しを支援します言う、聞こえは良いが形を変えたリストラ。一部には「来期、席はないから」とか「来ても意味がないから」と言った半ば脅迫が平然と行われているらしい。

間接事務のN君はこの3/末で居場所がないと言われて退職。先週の金曜日は同じ職場のKさんの送別会、彼はその制度に乗った一人。同じ日に大阪時代の上司だったSさんが半ば強制的に退職だというのを知ったばかり。そんなこんなを話してる旧来の知人であった同じ齢のY課長も実は3/末に退職予定。

ここに居ても日本の行く末と同じ。将来が見えないのである。
だが、今の状況で転職支援と言う名のリストラに乗ってしまうのもまた癪なのだ。
こんな所で反骨心が頭をもたげる、当たり前か?それとも俺はおかしいのか?
社会人としてと言うよりは、技術者として、あるいはビジネスマンとしてずば抜けて優秀であればとっくに他の組織に移っているだろう。そんな裏づけのないままにただ現場処理を生業として来た40歳過ぎのオヤジが、今の現状にキレて飛び出してみても、この時期に今より良い条件で働ける組織もまたない。
いつか破綻するだろうこの組織だが、既に入ってきている和製禿鷹に事業自体を売られる場合でも事業とともに自分を売り込んでやるため、組織の中のある所で生き延びてやろうと言う魂胆なのだ。
まあ、その前にこの国の経済界全体がオヤジ狩りみたいな状況だから。

Y課長亡き後、所属する課は解体の憂き目に会うのは必至。
その時点でこの課を立ち上げた時のミッションは終了となる。
であれば今腰掛けで入っている、担当業務に何の魅力もない、赤字垂れ流しの某センターなんかに居ても、身のためにはならないのである。
此処に来て、風向きが変わりつつある。
一年半前まで居た丹波の山奥は、この不況下でも新規顧客の引き合いの嵐なのだ。
現場処理のメンバーはその対応に疲弊、その上に来期は持株会社とのスキームが変わり担当業務の幅が広がるのである。
持株会社は更にリストラで人を切りすぎて、その現場に持っていける人材が既に残っていない。この二週間、状況把握と台本作り、内部協力者作りを水面下で進めていたが、、、、いよいよ、今週から第二ラウンドが始まる。

2010年1月31日日曜日

ちなみに

町課長様。うちの上の子は今年小学校二年生になります。下のが幼稚園入園です。けど収入は減る一方です。続きはまた後日書きます。