2011年10月15日土曜日

闇を裂く道 吉村昭 文春文庫




読むプロジェクトXである。

この話は、昔の鉄道省時代の東海道線の丹那トンネルの掘削物語。
その昔、維新を経て急速に近代化の進んだ日本、日清日露、そして第一次大戦と言う三つの大戦を経て、一躍国際社会に躍り出た日本であったが、国力増強の為には、東京と東海、関西を結ぶ大動脈である鉄道幹線の効率化は必至であった。だがその東海道を結ぶ鉄道幹線は箱根越えに苦しんでおり、当時御殿場を経由して東から西に出ていたが、勾配が強く非効率であり遠回りでもあった。
そのため、小田原から熱海を経て三島方面に抜けるトンネルを掘削した方が得策と考えられ始めたのは無理の無いことだった。

工事が始まったのは大正7年、その直下をトンネルが走ることになる丹那盆地(現在の函南のあたり)は、箱根山系の伏流水が豊富で米と山葵を栽培し、酪農を営む豊かな農村であり住民も穏やかな協調的なおおらかな性格であったため、それに敬意を表し当初「丹那山トンネル」と名づけられたのだが。。。
熱海側、三島側で相次ぐトンネル内部の大崩落。殉職者が増え、トンネル工事自体をマスコミに批判の的にされ暗雲が立ち込める、それでも現場は掘り進めるのだが、次に彼らを待っていたのは水分を含んだ「青い粘土層」だった。水が滝のように流れ、掘った切羽の先から水が噴出し、掘り進んだ何千メートルもの坑道を埋め尽くす水と土砂。掘っては埋まり、掘っては出水で水浸しの日々。

そして解決策として排水坑を新たに掘り、水を全て抜くと言う対策が裏目に出たのは、暫く経ってからであった。丹那地区の農家が渇水に悩み、そして土地が陥没し家屋が傾き始めたのである。
温厚だった丹那地区の住民が蓆旗を翻し、鋤鍬を持って押しかけてくる毎日。今で言う公共工事での公害であるが、、、それでも鉄道省はトンネルの掘削を諦めなかった。

渇水対策を施し、地盤の崩落の危険にさらされながら完成したのが昭和10年。
電気不足からつるはしで掘り始め、完成まで17年の歳月が流れていたのであった。(by 田口トモロヲ)

吉村昭の著作は久しぶりである。
旧くは「漂流」から始まり、「破獄」「海の史劇」「天狗争乱」「三陸海岸大津波」と読んできたが、事実を事実としてありのままに客観的に伝える「記録文学」の姿勢は、歴史を主観的に捉えた作品の多い司馬遼太郎とは対極であり好みが別れる所ではあろう。

たまたま本屋で手にした文芸書の別冊で、吉村昭の特集が組まれていたのを読んだことがあるが、彼は江戸中期以降から太平洋戦争まで、記録が残っていて自分で作品として想像のできる範囲の歴史しか書かないらしい。あくまでも主観を排して客観的に記録しようとすると、自ずとその範囲に限定されるのは仕方のないことだと思う。それだか歴史を伝える仕事に責任を感じていたのだろうと勝手に想像している。