2012年8月31日金曜日

母逝去 2012/8/24

2012/8/24 

平成24年(2012年)8月24日 午後0時25分。

実母が逝去。

原因はマイクロバクテリウムカンサシーによる「播種性非結核性抗酸菌症候群」。

享年79歳。

朝から大阪出張。10時半前に実兄から「母重篤」の報を受け、尼崎で引き返して、急遽、岡山を目指す。11時18分発ののぞみにのれそうもないと判断し、その一本あとののぞみを予約。岡山に12時20分過ぎに着き、父親に電話で「覚悟は決めるように」電話をして、12時45分過ぎの各停で倉敷を目指す。13時6分過ぎに倉敷駅着。タクシーで病院に駆けつけるも、病室に着く前に担当医に声を掛けられ間に合わなかったことを聞く。人間何時かこの日が来るのは解っているとは言え、まだまだ80歳に満たない母に、こんな最期が待っていたとは、運命というのは残酷である。正直辛い一日。

2012年8月14日火曜日

Weekly blog 2012/08/11~2012/8/17

2012/8/17(金) 一進一退

昼前、実兄よりメール有り。母親が一般病棟に移動することになったと病院から連絡有りとのこと。快復まで一歩前進と思ったのも束の間、夕刻遅くに本日見舞った実兄から再びメール有り。主治医から説明が有ったとのこと。一般病棟に移ったのは、快方に向かっているからではないが、病状が著しく悪化しているわけでもなく、要は変化がなく安定しているからとの理由。一般病棟に移ると、今までとは逆にきめ細かな看護が行えない。宿直は15病床に2名しかいないため、何かの拍子に重大な事態に陥るリスクも発生しうる。またむしろ期待した薬効が得られているか否かすらも解らない状態。浮腫がひどく胸水も再び増え、右胸は正直言って機能していない状態であるとのこと。一番辛いのは本人で、言葉を発せられないのだが、必死になって「むねがくるしい」「いえにかえりたい」と訴えているという。今はただ暗澹たる気持ちで一杯。幾ら難病で有るとは言え、それほどまでに苦しい思いをさせなくても良いではないか!神よ。

2012/8/13(月) 母持ち直す!母は強し!

心配し駆けつけた。今回限りは兄弟間でも「覚悟を決める」との会話があったのも事実であるが、、母は強いのである。こんな病には負けない!気力が奇跡を生む。この頑張りは流石、戦争を経験した昭和の母親だからなのだ。この人の子供である事を今は誇りに思う。子供の頃から、人一倍我慢強い母親であるとは感じていたが、ここに来て本当に母親の折れない心を見た気がする。頑張れ!お母ちゃん。目標は一般病棟にまず戻ること。そして秋には退院すること。ホームの親父にも戻ってきてもらい、また一家で来年の正月を迎えよう! 岡山児島屋号「荒神堂」は不滅。

2012年8月9日木曜日

Weekly blog 2012/8/5~2012/8/11

2012/8/10(金)

週末の日曜日(8/12)の夕方から帰省する事とした。来週末に金曜日から休む予定であったが、母親の病状が深刻なだけに、集まれる時に集まらないといけないと思い、朝から多方面を調整をして行くことにした。こんな時にも関わらず、物理的に非常に近い距離に色々と文句を垂れる人がいる。調整のために話しているのに喧嘩腰。いつもいつも喧嘩腰でよく疲れないものだ。

2012/8/9(木) 闘う母 

一昨日、本日と母親を見舞っていた実姉から報告アリ。病状悪化の兆しアリ。意識が漸く保てている状態、何とか意識を繋ぎ留める努力をし、それに応えてくれるものの、二日前より悪化進行している可能性否定できないとのコト。今後さらなる悪化も考えられ、今は何も起きない様に普段通りに変わったことはしたくない、来週の海外出張も予定通り行った方が良いか迷っているとのコト。 今が正念場なので、念のため国内にとどまっていた方が良い。結果的に何もなければそれで良しと伝える。 実兄からは父親にはショックが大きいかもしれず、話はするが会わさない方が良いのではとの連絡アリ。 どう転んでも我々は後悔をするだろうが、父親の気持ちを思うと、万が一、意思疎通が困難になってしまってから会わせ、結果として父親に悔いが残る事だけはしたくないと思いを伝える。 今日は六人兄弟の一番の長女である母の、一番下の叔父さんが、下から二番目の西宮の叔父さんからの連絡で、讃岐から駆けつけてくれ母を見舞ってくれたとのコト。皆が母の復活を祈っている。母の容態を悪化させている浮腫みが何とかひいてくれないか。祈っている。

2012年8月5日日曜日

Weekly blog 2012/7/28 ~2012/8/4

2012/8/4(土)

午前中、今日もホームの父親を見舞う。大体、いつも食堂で車椅子に座っている様だ。今日もそうだった。意識はしっかりしていて認知の症状もないのだが、話の内容が食べることだけになってきたのが心配だ。今日も昨日と同じ。「昼は何処かに食べに行こう」「ホームの人がお昼は準備されてるからアカン」「エエんじゃ」の繰り返し。連れて行きたくても事前の外出申請もしていないし、そもそも車椅子の人間を一人で軽自動車で運ぶことが無理なのだが。理解出来ないのは仕方がない。昼前にホームの方に御礼を言って母親の入院先に移動。昨日は喉を切開したばかりで、話せない事実に気づき驚いていた。実は母親のもとに行くのは気が重い。その事実に対して何と説明をしたら良いのか、母親自らがその決定を下したわけでなく。目が覚めてみたら話せない、声が出せないと言う事実を突きつけられた時に、母親がどんなに哀しむか。それが想像出来るだけに早く行ってあげたいのに行くのが憂鬱という異なる思いが胸中を錯綜する。午後一時過ぎICUに入る。母親は寝ていた。二週間前にやせ細っていた腕は三倍ほども腫れ、浮腫んでいる。主治医に話ができ浮腫の件を聞く。血中のアルブミンが不足し、アルブミンの不足を補うため点滴を入れるが、腸管も浮腫んで機能が低下、効果が想定される薬剤も経口のため同じように吸収されていない、よって薬剤の量も増量という悪循環が続いているのだという。二時間ほど待つ間に目が覚めたようで、しきりに何かを言おうとする。口の動きで何が言いたいかを予想して答えを出すと言う事を繰り返す。これだけ水が体内に溜まっているのに血中には水が少ないものだから喉が渇いているのだろう、しきりに「うがいをしたい」と言う。「うでがおもい」とも。物心ついた頃から母親の弱音を吐く姿を見たことがなかったが、夕刻になり別れ際、母親が声を出さずに泣いたのには、正直私も声を出して泣きたい位だった。一時間ほど予定より早いのぞみに乗り、23時すぎ自宅に帰投。