2010年5月29日土曜日

マン・マシンの昭和伝説(上)(下) 前間孝則 講談社文庫



戦前、航空機産業は国内随一のハイテク産業であった。
軍国主義の世の中で所謂航空機は兵器としてのそれでしかなかったが、生きるか死ぬかを争う航空機には技術の粋をつぎ込む必要があった。
またそれは同時に航空機技術者が技術を突き詰める事でもあった。
中島飛行機の長谷川龍雄、中川良一、中村良夫。
彼らが手塩にかけた結晶が日本航空界の傑作中の傑作と言われたエンジン「誉」である。
しかしながら、「誉」は当時の無責任体質の軍の「オクタン価の高い原油をいつでも確保する」 という空約束を前提に作られたエンジンであった。
そのため、オクタン価の高い原油の確保が苦しくなった大戦中盤には、改良に告ぐ改良を重ねても本来の性能を発揮できない不運なエンジンでもあった。
やがて、アメリカが1万メートルと言う高々度を飛ぶB29を開発する。
当時、高々度は日本の航空技術をもってしては未知の世界であった。
エンジンには過給機を搭載し、気密室を備えた与圧システムを持つB29は、高々度技術を持たない日本の戦闘機をあざ笑うかのように頭越しに日本各地を爆撃していく。
後発メーカーとして、機体中心のメーカーであった立川飛行機の田中次郎は、気密室の開発に持てる限りの技術を注ぎ込む。
だが、時は既に材料の確保もままならないところまで追い込まれていた。
やがて気密室を持った来はキ94というコード名でたったの一機完成をするものの、時は既に遅かった。

疎開、そして度重なる空襲、そして1945年8月15日・・・敗戦。

占領軍の政策として、航空機産業が封印された戦後。
今まで空をとぶ航空機のことだけ考えてきた、長谷川、中村、中川、そして田中。
それぞれ異なる人生を再び歩み始めていたが、彼らの行き着く先は当時、まだ航空機に比べれば
技術レベルも低い自動車産業であった。
だが、示し合わせるわけでなく、結果として彼らの様な航空機技術者が自動車産業を選択したのは偶然とはいえ、敗戦国ニッポンの産業界にあっては、幸運のめぐり合わせであったと言うことだろう。

碌にシャーシの負荷計算技術すら無かった自動車産業。
その世界で長谷川は豊田に席を得、やがてクラウン、パブリカ、カローラなどの豊田を不動の位置に押し上げた名車を次々と生み出す。
その技術者魂は常にかつて情熱をかけた航空機のことを考え、その 技術を新しい情熱の対象、自動車に注ぎ込んだ結果である。
他方、中川は旧中島飛行機系の富士精密工業で細々とエンジン技術者を続けていたが、旧立川飛行機系の流れを汲む、田中の居た たま電気自動車と合併、新たにプリンス自動車の技術者となる。
やがて彼らは技術のプリンス自動車をグロリア、そしてスカイラインで業界第三位の地位までのし上げる。
更に技術を追求した結果が、日本GPへの参加、そしてプリンスR380の開発であった。
だが、やがて彼らは不本意ながら国策から日産と悲運の合併をする事になる。
そして中村。
彼はまだ町工場に毛が生えたような新興二輪メーカー本田に職を得ることになる。
強烈な個性の本田宗一郎の下、技術論で対立しながらも無謀とも言われたF1に挑戦し続け、やがて世界を相手にF1の本田を率いることになる。
そしてまたあのCVCCエンジンの開発に持てる技術の全てを注ぎ込み成功させるのであった。
彼は晩年、自力では歩けない程になっても、まだ自動車業界のご意見番として活動していたのだ。

今や自動車産業は敗戦国ニッポンを戦後支え続けた屋台骨産業となった。
その技術をほぼゼロに等しい状態から作り上げてきた彼らの技術者魂。
或る意味羨ましくて、そして語り継がれなければならない魂だと思う。

2010年5月15日土曜日

サッカー観戦

朝から息子の練習の相手をして、午後は三ツ沢まで車で送ってもらい横浜F・マリノスの試合を見に行く。
生粋の阪神タイガース馬鹿なんで、自分の中では見るのは野球と決まっていて、生まれて初めてプロサッカーを生で見たのは昨年。
と言うことはまだサッカー初心者なんだが、今年も息子が喜ぶ顔を見たくてF・マリノスの応援に行く。
三ツ沢球技場は選手が真近に見られてF・マリノスの本来のホーム、日産スタジアムより好きだ。写真はコーナーキックに向かう、MF中村俊輔。
こんな近くで見れる!ってオイラちょっとミーハーかなぁ。




で、こちらはDF中澤。
因みに試合は終始ボールの支配率が高かったF・マリノスだが・・・
後半2-1でリードしたものの、残り10分で京都に追いつかれドロー!
まあ息子には思い出に残るいい試合だったのでは? (確か、昨年見に行った試合は川崎に負けたのだった)
帰りも買い物帰りの車に拾ってもらって、ラクチンな観戦であった。