2007年1月26日金曜日

「インパール」 高木俊朗 文春文庫


かねてよりずっと読みたかった一冊。
既に絶版で、年始に実家の父親の書架から見つけ出し漸く原作を読む事が出来た。

昭和19年、敗色濃くなる中でインドアッサムのインパールを攻略し攻勢反転すると言う名目で、現地の激しい雨季、兵站補給の難しさ、そして何より兵の命を露とも顧みなかった無謀な作戦。
それが「ウ」号作戦、所謂「インパール作戦」。
だが、この無謀さはそもそもビルマ方面第十五軍司令官、牟田口中将の功名心を満足させるが故の私物化された作戦。であった。
そもそも日本を泥沼に引きずり込む端緒となった蘆溝橋事件、その最初の一発を撃ったと言うのが牟田口。
その責任を自分が取ると言って憚らず、数ある「無謀だ」との周囲参謀の反対意見を退け、疎み、そして最後には「自分には神がついているのだ」と神がかりをちらつかせ、天長節にインパールの入城を果たすと言う計画。
その為に激しく滝の様に降るこの地方の雨季の前に作戦を開始すると言う合理性の欠片も無い、まさに牟田口の私欲を満足させるためだけの作戦。
その道具とならざるを得なかった弓、烈、祭の各師団、その師団長及び兵が戦地で見たものは、圧倒的な物量、計算され尽した兵站補給、そして詳細な敵情情報を持って攻撃してくる英印軍の強さであった。

碌な兵站補給が無く(補給は2~3千メートル級の山を牛に荷を負わせて行き途中で食う等と言う稚拙な計画)、飢え、熱帯病に倒れ、砲弾も数がないため制限され、激しい雨季の雨の中で、「蛸壺」と言われる身一つ隠すだけの壕の中で全身を泥水に漬け何日も耐え続けた兵は、突撃の刹那自分の運命に一体何を思ったのだろうか。

戦局が敗戦濃くなる局面において牟田口は、遂に元々作戦に消極的であった師団長を前線から解任し自分の腹心イエスマンを師団長とする暴挙に出る。
最後まで牟田口により兵と組織を私物化された各師団は、やがて当然の如く敗走。

その敗走においても元々兵站補給が無かった彼等は飢え、やせ衰え、熱病やチフスに倒れ、そして激しい雨に泥沼に脚を取られ立ったまま白骨になって流されて行くのだった。
彼等は何のためにわざわざこの地に来て、その命を落とさざるを得なかったのか。
それを考えると、彼等の犠牲の上のその後の繁栄、そして衰退の域に入った今のこの社会の有り様は一体何であろうか。

そして牟田口だが。
彼のとった様な組織の私物化と功名心への執着、そして結果への無責任。
それは時代が変わっても日本と言う国の企業、政治、官僚組織の至る所でいつも起こっていることである。

「硫黄島からの手紙」で、栗林忠道中将の人となり生き様が取り上げられ、あの時代の軍人やあの時代の教育への懐古や肯定が多く見られ、昔の日本人は素晴らしかったと言った様な論調が一部に見られるが、私にはこの牟田口中将の姿の方が昔も今も変わらぬ日本人の本質を表している気がしてならない。