2009年12月8日火曜日

そう言えば安定剤

既に一週間が過ぎようかとしているが、、、、、先週の水曜日、詳しく言えば12/3(水)。
遂に齢46に到達。

漸くと言うか、あっという間と言うか、、、あと4年もすれば男50歳なのである。
(そんな事は小学生でも計算できるのだが・・・・)

別に自分の誕生日を忘れていたわけでも何でもないが、今年の最後の4ヶ月。
正確に言えば9月後半からこのかた、ある仕事上の事件を切欠に、今まで既に悪かった状況が更に悪くなっていて、自分のことに構っていられない自分がいるのである。

始末の悪いコンバーター、動かないベンダー、理解しないセンター、他人事のメンバー、ダメ出しばかりのマネージャー、人を使いこなせないリーダー(これ自分ね)

中でも性質の悪いのは前者二者。
物理的に悪い状況を、更に精神的に最悪の状態に仕上げてくれたのが三番目。
何で奴等はいつも「上から眼線」なんだろう。

所詮てめぇも、他人の所為ばかりにして自分で自分を慰めているしがない中年と言われそうだが。
自分の所為でもありゃしない。

要はたとえばトラブルであっても、失敗であっても、取り巻く環境によって「前向き」に捉えられるか、「後ろ向き」に捉えられるかの違いでないかと思う。
それは国民性しかり、地域性しかり、組織の社風や風土、雰囲気しかり、同じ仕事にかける利害関係者しかり。

本当のところ、皆が皆、勝間erみたいになったら大変なんだが。。。
どうも皆、本気で勝間erを目指すもんだから、性質が悪い。
で、勝馬erに乗った気でいるから、つける薬がない。

所詮、劇だと割り切らなきゃ。

2009年9月6日日曜日

今年も秋旅

今日は一日、郊外の公園で過ごした。
気温は高いが、湿気の無い北海道の夏のような天気。
そういえば、空はもう秋だ!

友人Eはこの秋空の下、今週は西に向かっているらしい。
もう夏も終わりの旅だ。

ところで、今年の秋旅をどうしようかと思う。
今年は9月に5日間の秋休み。
日頃の努力の甲斐もあり、二日の自由を得たばかり。

西に向かうか、或いは男は黙って北に向かうのか?
秋旅計画は始まったばかり・・・・・

2009年8月30日日曜日

投票には行った!!

けど、白票を投じてきた。

わざわざ足を運んでまで白票を投じてきたのには理由がある。

その理由は別途書くが。

まぁ白けてるやん。
どっちがやっても一緒やろ今のこの国は。
米合州国で無いんだし、二大政党になる位、民主主義って単純なもんなんか?
それが或る意味理由やな。

2009年8月15日土曜日

サマーツアー09











2009/8/7

只管移動のサマーツアーが始まった。
今年も、計画を練ったのはツアコンの経験もある女房である。
初日は近場の箱根まで、朝7時に朝食抜きで車で移動を開始して、西湘バイパスで休憩してと初日は
楽勝。朝の早い時間に温泉とプールの混じった様な施設に入る。朝から熱気味だった息子の調子を見ながら遊ぼうと思っていたが、結局息子も着いて早々裸になって遊んでいた。午後は芦ノ湖畔に移動。西武系のバンガロー(食事つき)で上げ膳据え膳。昔はこんな旅、絶対にしなかっただろうが、やってみれば面白いもんだ。

本日の移動距離 約80km

2009/8/8

朝から温泉に入る。今日は車を使わない。当初は箱根駒ケ岳までロープウェイで上がって、そこから息子と大湧谷まで縦走の筈だったが、息子の調子がイマイチ上がらないので、縦走は断念。ロープウェイで一気に駆け上がった駒ケ岳山頂には神社と独特な形をしたロープウェイの駅がぽつねんと有るだけ。駒ケ岳にロープウェイで登った後は、バス&ロープウェイで噴煙立ち上る大涌谷へ。
有名な黒い卵は買わないが、作っている所だけはしっかりと見た。元々、関西人だし、学生時代山に登っていたと言っても噴煙立ち上る所なんかには行った事がないので、関東人の人気スポットが大湧谷である理由が何となくわかる気がした。

本日の移動距離 約15km位?(車使わず)


































2009/8/9

箱根から関西まで走る。箱根を9時過ぎに出て、沼津から東名高速に乗り、只管西進。高速に乗っていつも思うのは、豊田のα度とか日産のL運動場とかの箱みたいな馬鹿でかいヤンキー車の性質の悪さ。平気で左から延々と抜く、急に割り込む、ウィンカーを点けない。恐らくヤンキー全盛期だった同年齢の連中のチョイ悪気取りの馬鹿親父が乗っているのだろうが、頭の悪さを地で行くような走りやな。途中、名古屋から新名神に入った辺りで曇りから雨に変わり、京都で名神を下りてR171にスイッチした頃にはかなり強い降りだった。夜8時過ぎ西宮着。息子も娘も女房も「おやすみなさい」の後は暴睡!

本日の移動距離 約500km

2009/8/10

西宮から倉敷に移動。山陽道はかなりの土砂降り、道路の注意表示から兵庫県西部の豪雨被害を知る。何せ、8/7晩からまともに巷のニュースに触れていないので、、、。子供達は爺さん、婆さんとは久しぶりの再会。特に下の娘は今が一番かわいい時期なので、爺さん、婆さんにも、娘にも良い思い出になったのでは?夕方、雨が上がったところで息子と裏庭に蝉取りに出かけるも、今年は暑い夏が来るのが遅かったからか、絶対数が猛暑の昨年に比して少ない気がした。

本日の移動距離 約190km

2009/8/11

朝から婆ちゃんが震度6だと大騒ぎ。昼過ぎに長兄が一人で滋賀より新幹線で帰って来た。東海道新幹線は殆ど動いていないとのこと。東名上り線の崩落もニュースで知ったが、まあ何とかなるだろうと考えていた。久しぶりに伯父さんに会う息子はちょっと照れながら何かを話そうとしている。一方、娘は自分の親父と同じ雰囲気のどこかのおじさんに直ぐに慣れ絵本を読んで貰っている。子は親の鏡やね、オイラと女房の性格がそのまま子供達に投影された感じ。午後早くに山陽道にて移動を開始、夕刻に西宮着。

本日の移動距離 約190km



















2009/8/12

この日は義母方の祖母の初盆。朝早くから義父だけを家に残し、家族四人と義母で京都に移動。予定より早く着いたが坊主が遅れ、11時過ぎから漸く読経が始まる。真宗の「ありがたいお話」をしていった坊主は「忙しいんですわ」と言いながら、日産風雅で次の檀家に向かっていった。彼の仏道は確実に煩悩に裏打ちされている様ですな。
折角京都まで来たのだからと、ホテルで叔母にお昼をご馳走になって、これまた折角京都まで来たのだからと嵐山に向かう。息子は初めての嵐電に大興奮。

本日の移動距離 約180km























2009/8/12 

西宮を出たのは朝10時半。今日は女房子供を残し、独りで自宅に帰る。
名神吹田から乗った時は順調だった。京滋バイパスで若干混んだ程度で、新名神~東名にスイッチするもまずは順調に流れていた。わざわざ中央道に逃げる必要は無いと、そのまま東名に乗り続けたのが運の尽き。通行止め区間の始まる袋井の一つ手前、磐田で下りたらR1は大渋滞。それでも大井川までは1時間半以上かけて進んできたが、大井川の手前で県道にスイッチしたのが大誤算、結局川を渡るのに3時間半も掛かってしまった。静岡県を抜けるのに合計6時間半かけて、自宅着は夜10時半。
まる半日走り続け、CO2を排出しまくりの最終日。

本日の移動距離 約500km

2009年6月30日火曜日

大磯Midnight(2009/6/23)

憂鬱の火曜。
18時過ぎに御本社様で報告会が終わる。
まだ仕事をしようと偶然空いている席に座ったら真正面に相棒KZが居た。
迷わず新橋の例の店に繰り出す。財布の中身は野口英世が二枚。
全財産を籠に入れて飲み始めたのは確か19時。
一杯が二杯、二杯が三杯になるのは世の常。
いつしか生麦酒が焼酎に変わり、これまた一杯が二杯、二杯が三杯。
店主お勧めの「兼八」「瀞々」の最後の二杯が効いた。

23時過ぎに新橋から電車に乗ったのは憶えている。
横浜で満員の中、眼の前の席が空いたので座ったのも憶えている。
次に眼が覚めた時には既に4人がけボックス席に人は居なかった。
窓から見えたのは「ひ・ら・つ・か」???「平塚」!
降りようにも電車は既に走り出した後。
次に停まったのは「おおいそ」。
そうよ、あのOISOロングビーチの「大磯」。

乗越精算は400円だが、財布に僅かに残ったのは300円。
「有るだけでいい」と言う駅員になけなしの金を払い、駅前に出たのだが、なーんも無いのである。
ビジネスホテルも無ければ店も無い。
停まったタクシーに乗ろうとして、カードが使えるかを聞くと「使えない」の一言。
偶然見つけた駅横のコンビニのATMに気づいて金を卸そうとしても、ATMは取引中止。
壊れているのかと思ったら、24時過ぎは使えないそうなのだ。
何が「便利商店」だ!糞コンビニ!

ついこの前、しんちゃんのオヤジ野原ひろしが「はてかすかべ」まで乗り過ごしたのを見てウチの
子供にうけていたが、同じ事を自分ちのオヤジがやっているのだ。

金も無い、行く当ても無い、大磯25時。
ロングビーチから吹く風は思ったより寒かった。

2009年6月20日土曜日

栄螺さん症候群

サザエさん症候群が激しい。日曜日はサザエさんどころでなく正午を過ぎると気分が憂鬱になる。23時頃に寝床に着くが中々寝付けず眼が覚めるのはいつも4時。そこからはもう眠れない。あの計画をどうしよう、この案件はまったく進捗していない、先週も何も進まなかったと自分に言い訳をしている内に朝が来る。月曜出勤時は非常に低血圧。出勤の電車の中では眠れもしないのに只管、眼を瞑る。まるで何も進まない現実から只管逃れるがごとく眼を瞑る。漢字で書けば瞑想となるが、そんな良いものではない。憂鬱度が一番高いのが月曜と火曜、火曜の夕刻の報告会が一番辛い。水曜を過ぎると憂鬱は幾分和らぐのだが、今度は帰れない日が続く。これでは単身赴任時代となんら変わらない。唯一の幸せは金曜日、夕刻から新橋で一献を傾ける時間。

2009年6月9日火曜日

反骨鬱士

我々の合言葉は「反骨」

今までの我々の半生の付き合いの中で思うこと=貴殿は「反骨」の鑑。

長いものには捲かれない。短いものには流されない。

世の中太古の昔から、抗して、抗い、現状を肯定しない事が変化を起こす

頼朝然り、信長然り、龍馬然り、佐藤中将然り、ゲバラ然り。

決して悩むことは無い。我々がついている。その名も「駅前」。

「反骨鬱士」

我々、駅前の誇り。

**待て!!次号**

2009年5月5日火曜日

清志郎 永遠に・・・



夜に腰掛けてた 中途半端な夢は

電話のベルで 醒まされた

無口になったボクは ふさわしく暮らしてる

言い忘れたこと あるけれど

多摩蘭坂を登り切る 手前の

坂の途中の家を借りて 住んでる


だけどどうも苦手さ こんな夜は

お月様覗いてる 君の口に似てる

キスしておくれよ 窓から


多摩蘭坂を登り切る手前の

坂の途中の家を借りて住んでる


だけどどうも苦手さ こんな季節は

お月様覗いてる 君の口に似てる

キスしておくれよ 窓から


作詞作曲 忌野清志郎


合掌!

2009年5月3日日曜日

「あきれてものも言えない」がもう聞けない

かねてより癌闘病中であった清志郎が逝ってしまった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090502-00000037-maip-soci

あまりにも早い死。
おいらが一番好きだった歌い手。

高校生の時。
「トランジスタラジオ」宜しく授業をサボって裏山で煙草を吸っていた事もある。
「雨上がりの夜空に」宜しく、意識の中では暴走していたこともある。
(妙に醒めていたので族なんかには興味は無かったが・・・)

だが、実は一番好きだったのは「どっかの山師が、俺が死んでるって言ったってさぁ・・・」の「あきれてものも言えない」だった。
青春なんて清く正しいものではないが、屈折した若くて苦いおいらのあの頃は清志郎のあの独特の歌声と共に在ったのだが、、、もう生であの声を二度と聞くことが出来ないのは悲しい。

残念、無念、そして合掌!!

2009年4月21日火曜日

来るGW

現時点でほぼ絶望的。
4/30~5/1は休めそうだが、女房からは早々に5/3、4の指定休のオファーが来てしまった。
何故だ?

実家では実父が寝たきり状態で予断を許さない様子。
実父にもまして憔悴しきっているのは実母で、田舎での老老介護の現実に直面している。
考えられるのは5/3~5/4で寝たきりの実父と実母の状況を確認のため帰省することくらい。
せっかくの蛸鍋だが、雲行きはかなり暗い。
嗚呼、あーぁ。

2009年4月6日月曜日

入学式

今日は上の息子の入学式。昨日は女房のお母さんもわざわざ息子の晴れ姿を見に来た。朝の10時と言う中途半端な時間から、下の娘も連れて五人で小学校へ行く。小学校は校門から桜が満開。今年は今日まで桜が持った。絶好の入学式日和。


式自体は10時半前から始まった。開会直後いきなり起立して例の歌を歌わされるのには閉口。あんな歌、一生に一度も歌わないと心に決めているので、、、ハッキリ言ってちょっと意外。何の疑問も無く歌える親子は或る意味幸せ。そして奴等に騙されている。

まあそんな事はどうでもよく、恙無く式は進む。
わが息子は1年1組。女房に言わせれば幼稚園時代の同級生ばかりだそうだ。
担任の紹介があり。式はあっけなく終わる。
けど、生徒の数が1クラス30人。1学年3クラスと言うのは私が小学生の頃に比べるとほぼ四分の一の規模。改めて少子化の進行を実感。

その後、教室に移動して親子でガイダンスを受ける。
息子の初めての学校の先生は綾小路きみまろ風の女の先生。
早々に心の中で「きみまろ」って渾名をつけてしまった。

正午頃に解散。
外は雲ひとつ無い晴天で、その後は校門付近で桜をバックに撮影会になったのは言うまでもない。

第一子の記念すべき門出の一日。

2009年4月3日金曜日

期変わり

結局「現場処理」の事業化は達成できなかった。懸念された約数十名が路頭に迷う結果にならなかったのがせめてもの救い。まあろくでもない組織であるが、ろくでもない結論を出す事もまた出来ないろうくでなし。

事業化自体、不発に終わるのはどうと言うことは無いが、旧知の仲であったY課長との意識の溝が残ってしまったのは、これまた自分自身がろくでなしであると言うのをひしと感じた今期後半ではあった。
そもそも仕事に対しての意識が違いすぎるのだな。Y課長は「現場マネジメント」を手がけてきた人だからね。人は何の理由で動いて、どんな理由でやる気になるのか、最大の成果を挙げるのは何か、そして結果としてのコストは?売り上げは?って事を延々頭の中でシミュレートできる人。

それに引きかえオイラは、現状把握も分析も全く出来ていないのに、どんな成果物にしようか?と結論を急いで自爆してしまう人。目先の問題ばかりに眼が行って問題の本質が見えていない人。結局「現場処理」上がりの人間なので対策は出来ても、原因調査が徹底的に出来ない人なのだと言う事が良くわかりましたわ。今まで皆オイラの事を誤解して「理詰めの現場処理人」と思っていた様な節があるが、それはアンタ等の見る眼が節穴だったって事。

いずれにせよ一から反省の今期後半。
特に一つのミッションを背負ってからのこの三月は、只管一日は長く、短い一ヶ月であった。
疲れた。

2009年3月29日日曜日

卒園式(2009/3/20)

この日、家族四人で朝から息子の卒園式に向かう。今日で息子は満六歳の誕生日、その誕生日に卒園式が重なってちょっと思い出に残る一日。思えば大きくなったなぁ。三月生まれでこんな小さな線の細い子が皆と一緒にやっていけるのかと不安が一杯だった3年前。女房も不安で不安で仕方が無かったのだろう、その不安が高じてこの三年の間にはその不安を爆発していた時もあったなぁ。今では生意気な口を利けるほどの悪餓鬼になったのであの不安は何だったのだろうなんて思いもする。式の途中で季節はずれの大雨。その間にも修了証書の授与式と皆勤賞の発表と続く。そこで息子が年中年長と皆勤だったと知る。3年間皆勤になれなかったのは年少のときにたった一日休んでしまったからだそうだ。なかなか根性あるんやん息子!!最後は卒園生全員で歌を歌って終了。いやぁ良い式でした。

そして、親父もこの日で卒煙。これは皆禁にするぞ!と決意。
(息子が生まれた丁度6年前、禁煙を決意した筈だったのだがついつい酒飲むと煙吸っていたりする自分に喝!)

2009年3月15日日曜日

このまま行けば

来期からは再び単身赴任になる可能性が高い。千葉の僻地に通勤しているが、既に限界状態。一日の4分の1を通勤に使っているのは空しいし無駄以外の何者でもない。来期はそのまま僻地での勤務が恐らく続くであろうから、早々に新1k庵を決めた方が身のためだ。昨日、女房にも了解は得た。駄菓子菓子、気になるのは小学新一年生になる息子の事。せっかくの小学校生活のスタートから見守ってやりたいのだが、親父の存在感はゼロになってしまわないか?まあ前回と比べ今回は週末毎に帰れるのが救いではあるが。
それはそれとして、現実には徐々にではあるが調査も始めている。次回の1K庵はこのまま行くと恐らく葛飾辺りになる可能性が濃厚。

2009年3月8日日曜日

早三月

早いものでもう3月である。期末である。この所、同じ年齢のY課長が冷たいのである。私があまり仕事が出来る人間ではないと言うのが判ったのかな?まあ色々立場もあり考えも違うのだが、自分自身でこの正月明けから自己嫌悪に陥る位、仕事では凹んでしまった。何のことは無い、この年齢であれば出来て当たり前の事が出来ないのだ、、と言うか、今回の話は「儲ける仕組みを作る話」なので、今までの様に「仕事の仕組みを整備する話」とは全くアプローチも違うのだ、、、が、それは自分自身でも言い訳だと判っている。Y課長にしてみればそんな違いは当たり前で、それでもよく考えている奴ならアプローチは違えど、答えは同じでないの?と思うことだろう。只管申し訳ないと思う今日この頃である。で、今月から現場を応援指導と言う役割で関東の果てに出かけて仕事をしているのだが、、、遠いなあホンマ。

地球温暖化の影響か、近年は2月より3月の方が寒い。昔に比べ約一ヶ月ほど暦がずれている気がするが、今年も先週関東の僻地に行き始めた三日目に雪が降ったのには参った。この冬初めて見る雪だが、やはり僻地は僻地であることを痛感した。

ただ仕事のことは置いといて、この2月の上旬からこの一ヶ月は家庭は非常に円満やったなぁ。
まあ一ヶ月すれば、新たな期が始まり、再び僻地に単身赴任と言う可能性もあるが、、、今は一瞬忘れていよう。今は。

2009年2月21日土曜日

残念!新橋

この日、事前に掲示を見て知っていたので定時で上がって新橋に駆けつける手筈で動いていた(残業規制の厳しい昨今、定時で帰る事なんてなーんも珍しい事でも何でもない)のだが、、午後の二時間、急遽代理出席を頼まれた事から予定通りの進行計画が狂ってしまった。週末金曜日納期の案件を半分もこなせないままに日は暮れ、結局新橋は断念と言う事に相成った。残念!絹の道の話とか色々と募る話は在ったのだが、、、再見!待て次号!!なのである。因みに暫く関東へのドサの機会が無いとの事であったが、、、、次回は課町長の邸宅の庭で集まりましょう、或いはマキノでもエエね!(と勝手に決めている)

2009年2月6日金曜日

PC復活

PCの修復を始めたのは日曜日の晩。月曜日は遅かったので、火曜日の晩からデータバックアップを始めたのだがどの媒体でも容量が足りず、どうしようか迷っている間に急遽水木曜日の連日有休を取らざるを得ない状況になった。よって木曜日の朝からポータブルHDDを買ってきて万事休す。全てのデータバックアップを終え、HDDリカバリーを始めたのが木曜日の晩。そして漸くたった今(金曜日の晩)全ての再インストールが終了。数年前に原因不明の故障でHDDを交換する破目に陥り、今回も原因不明であったが、何とか事なきを得た。それにしてもFMVはHDDが弱い!

2009年2月1日日曜日

自宅PCぶっ壊れ

早いもので今年ももう二月。昨日まで遅いながらもまあ元気に動いていた自宅PCだが、昨晩TVからHDDにドラマを録画をしてから調子が悪い。窓XPの立ち上がりで直ぐ再起動が掛かる。どうやらセキュリティソフトが悪い作用を及ぼしているような気がするが、、、原因不明。セーフモードで立ち上げて、ベリファイだの何だのやったら一瞬直ったみたいに見えたのだが、再起動するとまた没!何なんだこれ?休日の昼間からずっと仕事みたいにPCの復旧に取り掛かっている・・・(因みにこの日記は修復中、セーフモードで書いた)

2009年1月21日水曜日

その朝は号外が配られた

朝、JR駅前で号外が配られていた。

昨日は呑んで帰り、小浜の就任演説は生で見れず。米帝の最高権力者の就任演説なんてどうと言って今まで興味も持っていなかったが、小浜の就任演説だけは歴史の転換期を見とかねばと言う気が働いた。まぁ彼の出し物は色々あって何が成功して何が失敗するかなんて解らないが、確実に期待するのはグリーンニューディール。奴等のエネルギー意識が変われば、幾分かは人類は長生き出来るかも知れない。

それにしても、「小浜は英語がうめぇなぁ~」なんて脳天気な事を言う、支持率最低の「国語も出来ない馬鹿宰相」はこの小浜人気をどう見ているのか?本当にタダ単に羨んで見てるだけなんだろうが・・・・・

2009年1月19日月曜日

新橋で再開(2009/1/16)

前々日、突如、友人英からドサの報。
週末金曜日はほぼ100%空いている、しかもこの日は幸運にも午後から上司が外出。
とは言っても呑めるのは長くても約一時間半、定時になって卓球脱出!で新橋へ。
SL広場前で待ち合わせ、立呑みでなく座れる店で鍋をやる。
最終新幹線に間に合うよう20時前には英とMサンは帰り、残ったのはOサンと私。
実はコンピュータ黎明期の経験者Oサンとは初対面なのだが、この後22時半過ぎまで焼酎ロックを呑みながら色々な事を話したのである。いやぁ面白い出会いでした。

2009年1月15日木曜日

2009年通勤風景(2009/1/8)

朝、横浜までの東海道線の中でまだ黎明の車窓を眺めていたら「カタカタカタ」と不快な連続音。車内で不快な音といえば一に携帯の会話、二にウォークマン(既に死語!)と言うかiPOD位なものなので、「何だぁ?」と思って音の方向に眼を見向けると、コートとスーツを着た見るからに会社員風の男が射るような(けどどこか生気の無い)眼差しでポータブルゲーム機を見つめ、左右の指を動かしていた。
なーにゲームごときに真剣になってるんだよ?と思うよりも先に、どうみてもこいつは馬鹿にしか見えなかった。
続く地下鉄の中でも、前に座った学生風の奴が、これまた魚の腐ったような眼でポータブルゲーム機を叩きまくっている。

たまたまほぼ同じ時期に英蟯虫が日記で書いている。
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=167400&log=20090106

同じことが携帯電話でも言えると思う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090112-00000021-maiall-soci

ゲーム機も携帯電話もオイラに言わせても社会悪。
企業は利益さえ出れば、何を作っても売っても良いのか?と思う。
企業の本質は利益を生むことだが、その存在価値は社会的な貢献、社会に利益をもたらす事にこそ見出せると思う。
馬鹿を生むゲーム機や、携帯電話を作っている会社が、馬鹿を拡大させていることにPL法を問う事が出来るなら、もっと社会から「どうしようもない馬鹿」が減っているだろうにと思う。

2009年1月13日火曜日

立呑酒乱(新橋「龍馬」2009/1/9)

新年最初の週末である。まだ年始の計も立てていないが、そんな事はお構い無しに呑みに行く。相棒ははるばる千葉県からやって来るので出だしはちょっと遅れて20時過ぎ。生憎の雨で寒いSL広場で待ち合わせいつもの「龍馬」へ。何時にもまして混んでいたが、あのブレーカートリップの一件があってから常連と認められているので(こっそりドリアンと呼んでいる)店の兄ちゃんが気を利かせてくれて少し狭いが二人分の隙間を奥のカウンターに空けてくれた。まずは生ビール中で年始の乾杯。肴はカマトロ刺し、鶏南蛮。お互いの正月の話をしながら生中は二杯で止めて、芋に移行、名前は「佐藤」だったか何だったか思い出せないが其々水割りにしてもらい都合三杯。最後は焼きそばで〆る。今日はどんな話だったっけ?正月の話はしたが、その後はぞろ目ナンバーの話だったっけ?まあいつもの様に何度も同じ事を話しているのだが、すっかり忘れてしまうので翌週も同じ話題で呑めるのである、、、。けど他は何の話ししたんやったかな。ホンマ忘れてるわ。

2009年1月12日月曜日

2009年通勤風景(その1)(2009/1/6)

年始から強盗慶太の敷設した東横線で通っている。(この選択にはまあ色んな意味があるのだが)この日も横浜から乗った。ちょっと狭いなと思った4人掛け+3人掛けの7人掛けの席のうちの4人掛けの席の方に座る。

体質的とかそんな言い訳は効かないほどの自制心の無い型肥満のオッサンが左に居る事が大体狭いのだが、右のOLか学生の若い女が自らの横にプラスチック製のブリーフケースを置いているのが狭いのを益々狭くしている。こちらが腰掛けると、若い女はそれに反応するように明らかに故意にブリーフケースをグイグイと押し、出て行けと言わんばかりの行動に出る。「鬱陶しいな~」と思っていたら、今度は左の肥満が明らかに故意に肘を突き出してくる。

二、三駅こんな奴等に挟まれながら不愉快な気持ちでいたが、不意にそんな自分が馬鹿馬鹿しくなった。

まるでこれじゃあデブがエジプトで、女がレバノンかヨルダンかシリアで、女のブリーフケースがガザ地区で、オイラがイスラエルみたいな構図ぢゃん。オイラから見ればオイラがガザ地区で、デブが米帝で女が英帝で、ブリーフケースがイスラエルやねんけどな。
自分達の縄張り争いに汲々とするのは、悲しいかな人間の生まれもってのサガなのかも知れない。
そうか!その心理をゲームにしたのがイス取りゲームなわけやな。

因みに、隣の女に「カバンは網棚に置かれたら如何ですか?」と言ったが無視された。因みにこの女はセレブに人気の自由が丘で降りていった。隣のデブは狸寝入りを決め込んでいたが、次の駅で隅の席にヨタヨタと移動していった。

強欲な奴はいつでも、どこでも強欲である。人に合わせる、人と分かち合うと言うのをしらない。
しかしながら強欲な割りに電車で通っているわけだから、どうも強欲が収入とかで実を結んだことが無いようだ。
己を知れ!この強欲!

2009年1月5日月曜日

仕事始め

さあ2009年の仕事始めである。
昨秋、丹波の山中の現場処理から再び、混沌と強欲の象徴、温室効果ガス垂れ流しの象徴「大東京」の「ご本社様」に転勤して来てから、「現場処理」と言う最も金儲けに無縁な業務の「金儲けモデル」をY課長と考えていたが、果たして今月が「金儲けモデル」化の白黒がハッキリする勝負の月なのである。金儲けに無縁な業務の「金儲けモデル」なんて、成立しても左団扇で暮らせる程の利益にも繋がらないが、実は我々には「金儲けモデル化」以前の使命がこのミッションには隠されているのである。この「金儲けモデル」化が成立しない場合、最悪の場合は現場処理及びその周辺技術部門の連中、それは数にして最小4名~最大30名ほど、更に言えば彼等の家族を含めれば約100名弱の将来を路頭に迷わす結果に陥る可能性がある。だからこそ我々は真面目にこのミッションに(多少、資料作りに飽きながらも・・・)取り組んでいるのであるが、、、、正月明けは確かに低血圧状態。思考力が働かないので早々に退社。

で、新年明けの今日から時間が掛かるが安い通勤ルートに切り替えたので、強盗慶太の敷設した私鉄で渋谷から横浜へ。
横浜の紀ノ国屋書店で探していた本をゲット

http://kappa-novels.com/shinkan/200505/05_02.html

新年早々は横山秀夫から始めるのである。

閑話休題
昨日、もう一方の板に書いたら早速に180km/h→108km/hに変わっていた

http://www.ekimaerindows.com/diary/diaryindex.html

友人Eの細かい配慮に感謝。

2009年1月4日日曜日

とんだ年明け(2009/1/1~2)

2009年、元日。毎年そうだが元日に一年の計を思う事は余り無い。投げやりに生きているつもりも無く、公私共にやらねばならぬことは沢山有るが、子供の時から年始早々に祈ったものが実現したためしが無いからだ。そんな事を努力不足と言うのだと誰かに吐いて捨てるように言われそうだが、幸い今日はそんな事を言う人は身の回りに誰も居ない。

午後早くに例によって実兄一家が自宅に去り、その後はこの時とばかりうだうだだらだらと昼間から麦酒を飲んで暮らしていたら、あっという間に夕方になる。
早くも今晩、夜行寝台で自宅に帰るので、午後の9時半には実家を出た。
この冬は温暖化を印象付ける暖冬傾向が激しいが、元日の晩は流石に寒い。田舎なので寒空に満天の星が降り注ぐ。
会社員の小倅故に、実の父母も都会生活からのUターン組であり、この実家に暮らしたことは一度も無いが、最近この先祖代々の地が自分のルーツであると言う思いを何故か強く感じている。(住みたい住みたくないという感情とはまた別の感情として・・・)
40代も半ばを過ぎれば、それまで隠れていた心理が顔を出すのかも知れない。

最寄り駅を15分ほど遅れ、22時15分過ぎに再び上り夜行寝台の人となる。

が、ここからが長かった。
岡山の手前で実家からのメールで自宅の鍵を見事に忘れてきたことに気付き、再び実家にUターン。
結局、1/2の6時過ぎの「のぞみ」で東進する羽目に、、、。
1/2の一番列車なら切符が指定でも残っていたのが不幸中の幸い。

波乱を予想させる幕開けではある。

とんだ大晦日(2008/12/31)

帰省二日目。早朝に夢の中で「助けてぇ、助けてぇ」と誰かが叫んでいる。ふと眼が開き「夢か?」と思ったのもつかの間、まだ「助けてぇ」と声が聞こえている。聞こえて来るのは実家の裏手で、慌てて駆けつけると誤ってモノの下敷きになった実母の姿があった。大晦日であり、しかも決して都会とはいえない瀬戸内の田舎であるが、当番医が市立の病院でありレントゲン医が居たのは不幸中の幸いだった。診察の結果は肩の骨折。手を吊り「情け無い!」と悔やむ実母を見ていると可哀想でならない。

一昨年の年末は実父が足を骨折、昨年は元日から実母が風邪で寝込んだ。
昭和の時代を共に生きてきた家族が皆、年齢を重ね確実に老いて行っている事を、毎年末に改めて感じるのである。
勿論、自分自身も老いて行っている事も・・・。
そんな事からか、この所、年末には確実に兄弟達が集まっている気がする。
昨日は夕刻に実姉が帰省し、この日の午後が実兄が四人家族で帰ってきた。

夕刻から鍋を囲んで、まあそれなりに賑やかな宴を開く。
それにしても、どのチャンネルを回しても大晦日のテレビ番組ほど今のこの世の中の低脳振りを反映したものは無い。
興味の無い格闘技か、何時までも変わらない「ド」の付くほど下らない演出の国営放送の歌番組か、「下町」と言う名の下らない漫才師の演出する「笑えない」バラエティ番組位しかない。
特に「下町」と言う名の下らない漫才師の番組は、甥っ子、姪っ子が見始めた事もあり暫く見ていたのだが、いい歳をした大人が内輪の貧乏芸人相手にイジメを繰り返している様を番組にしている様にしか見えず、少し見ただけで気分が悪くなった。
あんな「イジメ」を見て笑える人間は、或る意味「不幸」だ。
人を「イジメ」て視聴率が取れると言うのは、それだけ人心が殺伐としている証拠であり、誰もが日頃何かに虐められているから、更に弱い者を虐める(或いは虐めたい)という心理の現れだろう。

そんな事を思っている間に入浴の時間となり、普段は実母に風呂に入れてもらっている年老いた実父を風呂に入れる。
実父の背中を流したのは何年ぶりだか定かではないが、親孝行が出来るという事は、つくづく幸せな事だと今更ながらに思う。
そうこうする内に年を越した。

2008年帰省(2008/12/29)

2008 年の帰省は昨年末同様のバラバラ帰省。しかも今年は女房の実家での合流が無く、正真正銘の独身帰省状態。実は自宅で正月をすごそうと考えていたので、急転直下帰省をする事になっても家族4人まとまった席の切符が取れない憂き目に遭ったのがこの結果。暫く女房子供と離れて年末年始を迎えるのである。
因みにこの日は21時過ぎに女房に最寄駅まで送ってもらい、横浜22:21発の「サンライズ瀬戸・出雲」に乗る。






この寝台列車は以前出張で使った事がある。今回はソロと言う小さめの個室。昔で言うとB寝台?(その辺りの区別は正直分かりません)。何が驚いたって部屋の三分の一が階段なのである。因みに二階なので眺望は抜群。












夜行には酒とつまみと雑誌は欠かせず、この日は恵比寿の緑缶と濁り酒とちくわ。昼間に購入しておいたRIDE19を読みながらすっかりご機嫌。横浜を出て約40分。小田原あたりだったか?








まあこんな感じで狭いのだが、今の時代寝る所があるだけましとも言える。










夜中に一度目覚めた時は愛知県の何処かの街中を走っていた。煌々と照らされる誰も起きていない年の瀬の初冬の夜中の街は、ただ住宅と工場ばかりが目立つ無機質な景色で、その中を静かに走り去って行く夜行列車に自分自身が乗っていると言うのを不思議な感覚で捉えていた。まあそんな感覚は直ぐに深い眠りに取って代わられるのであったが、、、、、次に目覚めたのは大阪。電車はいつの間にか45分ほど遅れていて午前5時過ぎ。









夜が明けたのは岡山県内に入り、和気駅の手前辺りでなかったか?以前に比べると熟睡して、結局12/30朝の7:50に実家の最寄り駅に着いたのであった。クルマでも、飛行機でもいつも帰省は苦労しているが、今回は比較的楽な旅。そしてこれが今年最後の旅だった。よく考えれば単身赴任と言う、ある意味独り旅みたいな生活で年始を迎え、年の締めくくりもまた独り旅。こうして2008年も無事終わったので有る。


大掃除(2008/12/28)

ウチの家は本当にやる事為す事、無計画でゲリラ的なのである。家を建てるのもそう、車を買うのもそう。が、女房は女房なりに計画的にやっていると言う思いらしく、いつも休日は「頭を働かせて動け!」と息子ともども怒られているのである。で、今日も同じ事を言われるのは嫌なので、昨晩急遽決まった帰省の切符を女房子供の分の航空券の支払い、私自身の夜行寝台特急券の手配と朝から精力的に動き、尚且つその合間に散髪までして、帰宅後は息子のサッカーまで付き合ったのである。さて、昼食後は朝からの精力的な活動が祟って娘の寝たのを良い事に迂闊にもウトウトしていた所、女房から大目玉!を喰らう。「人が大掃除に忙しいときに・・・」と言われては言い返す術も無い。結局は、やはり女房の指示の下で息子の勉強スペースと玩具の整理をする。捨てるもの残すもの、あーでもないこーでもないと息子と二人で片付けていたら、結局日没まで掛かってしまった。それでもやはり掃除をしないのとするのとでは大違い。例え女房の指示とは言え「一日一膳」と言う気にはなる。こうして今年の我が家の年末行事も無事終わった。