2009年12月8日火曜日
そう言えば安定剤
遂に齢46に到達。
漸くと言うか、あっという間と言うか、、、あと4年もすれば男50歳なのである。
(そんな事は小学生でも計算できるのだが・・・・)
別に自分の誕生日を忘れていたわけでも何でもないが、今年の最後の4ヶ月。
正確に言えば9月後半からこのかた、ある仕事上の事件を切欠に、今まで既に悪かった状況が更に悪くなっていて、自分のことに構っていられない自分がいるのである。
始末の悪いコンバーター、動かないベンダー、理解しないセンター、他人事のメンバー、ダメ出しばかりのマネージャー、人を使いこなせないリーダー(これ自分ね)
中でも性質の悪いのは前者二者。
物理的に悪い状況を、更に精神的に最悪の状態に仕上げてくれたのが三番目。
何で奴等はいつも「上から眼線」なんだろう。
所詮てめぇも、他人の所為ばかりにして自分で自分を慰めているしがない中年と言われそうだが。
自分の所為でもありゃしない。
要はたとえばトラブルであっても、失敗であっても、取り巻く環境によって「前向き」に捉えられるか、「後ろ向き」に捉えられるかの違いでないかと思う。
それは国民性しかり、地域性しかり、組織の社風や風土、雰囲気しかり、同じ仕事にかける利害関係者しかり。
本当のところ、皆が皆、勝間erみたいになったら大変なんだが。。。
どうも皆、本気で勝間erを目指すもんだから、性質が悪い。
で、勝馬erに乗った気でいるから、つける薬がない。
所詮、劇だと割り切らなきゃ。
2009年9月6日日曜日
2009年8月30日日曜日
2009年8月15日土曜日
サマーツアー09
2009/8/7
只管移動のサマーツアーが始まった。
今年も、計画を練ったのはツアコンの経験もある女房である。
初日は近場の箱根まで、朝7時に朝食抜きで車で移動を開始して、西湘バイパスで休憩してと初日は
楽勝。朝の早い時間に温泉とプールの混じった様な施設に入る。朝から熱気味だった息子の調子を見ながら遊ぼうと思っていたが、結局息子も着いて早々裸になって遊んでいた。午後は芦ノ湖畔に移動。西武系のバンガロー(食事つき)で上げ膳据え膳。昔はこんな旅、絶対にしなかっただろうが、やってみれば面白いもんだ。
本日の移動距離 約80km
2009/8/8
朝から温泉に入る。今日は車を使わない。当初は箱根駒ケ岳までロープウェイで上がって、そこから息子と大湧谷まで縦走の筈だったが、息子の調子がイマイチ上がらないので、縦走は断念。ロープウェイで一気に駆け上がった駒ケ岳山頂には神社と独特な形をしたロープウェイの駅がぽつねんと有るだけ。駒ケ岳にロープウェイで登った後は、バス&ロープウェイで噴煙立ち上る大涌谷へ。
有名な黒い卵は買わないが、作っている所だけはしっかりと見た。元々、関西人だし、学生時代山に登っていたと言っても噴煙立ち上る所なんかには行った事がないので、関東人の人気スポットが大湧谷である理由が何となくわかる気がした。
本日の移動距離 約15km位?(車使わず)
2009/8/9
箱根から関西まで走る。箱根を9時過ぎに出て、沼津から東名高速に乗り、只管西進。高速に乗っていつも思うのは、豊田のα度とか日産のL運動場とかの箱みたいな馬鹿でかいヤンキー車の性質の悪さ。平気で左から延々と抜く、急に割り込む、ウィンカーを点けない。恐らくヤンキー全盛期だった同年齢の連中のチョイ悪気取りの馬鹿親父が乗っているのだろうが、頭の悪さを地で行くような走りやな。途中、名古屋から新名神に入った辺りで曇りから雨に変わり、京都で名神を下りてR171にスイッチした頃にはかなり強い降りだった。夜8時過ぎ西宮着。息子も娘も女房も「おやすみなさい」の後は暴睡!
本日の移動距離 約500km
2009/8/10
西宮から倉敷に移動。山陽道はかなりの土砂降り、道路の注意表示から兵庫県西部の豪雨被害を知る。何せ、8/7晩からまともに巷のニュースに触れていないので、、、。子供達は爺さん、婆さんとは久しぶりの再会。特に下の娘は今が一番かわいい時期なので、爺さん、婆さんにも、娘にも良い思い出になったのでは?夕方、雨が上がったところで息子と裏庭に蝉取りに出かけるも、今年は暑い夏が来るのが遅かったからか、絶対数が猛暑の昨年に比して少ない気がした。
本日の移動距離 約190km
2009/8/11
朝から婆ちゃんが震度6だと大騒ぎ。昼過ぎに長兄が一人で滋賀より新幹線で帰って来た。東海道新幹線は殆ど動いていないとのこと。東名上り線の崩落もニュースで知ったが、まあ何とかなるだろうと考えていた。久しぶりに伯父さんに会う息子はちょっと照れながら何かを話そうとしている。一方、娘は自分の親父と同じ雰囲気のどこかのおじさんに直ぐに慣れ絵本を読んで貰っている。子は親の鏡やね、オイラと女房の性格がそのまま子供達に投影された感じ。午後早くに山陽道にて移動を開始、夕刻に西宮着。
本日の移動距離 約190km
2009/8/12
この日は義母方の祖母の初盆。朝早くから義父だけを家に残し、家族四人と義母で京都に移動。予定より早く着いたが坊主が遅れ、11時過ぎから漸く読経が始まる。真宗の「ありがたいお話」をしていった坊主は「忙しいんですわ」と言いながら、日産風雅で次の檀家に向かっていった。彼の仏道は確実に煩悩に裏打ちされている様ですな。
折角京都まで来たのだからと、ホテルで叔母にお昼をご馳走になって、これまた折角京都まで来たのだからと嵐山に向かう。息子は初めての嵐電に大興奮。
本日の移動距離 約180km
2009/8/12
西宮を出たのは朝10時半。今日は女房子供を残し、独りで自宅に帰る。
名神吹田から乗った時は順調だった。京滋バイパスで若干混んだ程度で、新名神~東名にスイッチするもまずは順調に流れていた。わざわざ中央道に逃げる必要は無いと、そのまま東名に乗り続けたのが運の尽き。通行止め区間の始まる袋井の一つ手前、磐田で下りたらR1は大渋滞。それでも大井川までは1時間半以上かけて進んできたが、大井川の手前で県道にスイッチしたのが大誤算、結局川を渡るのに3時間半も掛かってしまった。静岡県を抜けるのに合計6時間半かけて、自宅着は夜10時半。
まる半日走り続け、CO2を排出しまくりの最終日。
本日の移動距離 約500km
2009年6月30日火曜日
大磯Midnight(2009/6/23)
18時過ぎに御本社様で報告会が終わる。
まだ仕事をしようと偶然空いている席に座ったら真正面に相棒KZが居た。
迷わず新橋の例の店に繰り出す。財布の中身は野口英世が二枚。
全財産を籠に入れて飲み始めたのは確か19時。
一杯が二杯、二杯が三杯になるのは世の常。
いつしか生麦酒が焼酎に変わり、これまた一杯が二杯、二杯が三杯。
店主お勧めの「兼八」「瀞々」の最後の二杯が効いた。
23時過ぎに新橋から電車に乗ったのは憶えている。
横浜で満員の中、眼の前の席が空いたので座ったのも憶えている。
次に眼が覚めた時には既に4人がけボックス席に人は居なかった。
窓から見えたのは「ひ・ら・つ・か」???「平塚」!
降りようにも電車は既に走り出した後。
次に停まったのは「おおいそ」。
そうよ、あのOISOロングビーチの「大磯」。
乗越精算は400円だが、財布に僅かに残ったのは300円。
「有るだけでいい」と言う駅員になけなしの金を払い、駅前に出たのだが、なーんも無いのである。
ビジネスホテルも無ければ店も無い。
停まったタクシーに乗ろうとして、カードが使えるかを聞くと「使えない」の一言。
偶然見つけた駅横のコンビニのATMに気づいて金を卸そうとしても、ATMは取引中止。
壊れているのかと思ったら、24時過ぎは使えないそうなのだ。
何が「便利商店」だ!糞コンビニ!
ついこの前、しんちゃんのオヤジ野原ひろしが「はてかすかべ」まで乗り過ごしたのを見てウチの
子供にうけていたが、同じ事を自分ちのオヤジがやっているのだ。
金も無い、行く当ても無い、大磯25時。
ロングビーチから吹く風は思ったより寒かった。
2009年6月20日土曜日
栄螺さん症候群
2009年6月9日火曜日
2009年5月5日火曜日
清志郎 永遠に・・・
2009年5月3日日曜日
「あきれてものも言えない」がもう聞けない
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090502-00000037-maip-soci
あまりにも早い死。
おいらが一番好きだった歌い手。
高校生の時。
「トランジスタラジオ」宜しく授業をサボって裏山で煙草を吸っていた事もある。
「雨上がりの夜空に」宜しく、意識の中では暴走していたこともある。
(妙に醒めていたので族なんかには興味は無かったが・・・)
だが、実は一番好きだったのは「どっかの山師が、俺が死んでるって言ったってさぁ・・・」の「あきれてものも言えない」だった。
青春なんて清く正しいものではないが、屈折した若くて苦いおいらのあの頃は清志郎のあの独特の歌声と共に在ったのだが、、、もう生であの声を二度と聞くことが出来ないのは悲しい。
残念、無念、そして合掌!!
2009年4月21日火曜日
2009年4月6日月曜日
入学式
式自体は10時半前から始まった。開会直後いきなり起立して例の歌を歌わされるのには閉口。あんな歌、一生に一度も歌わないと心に決めているので、、、ハッキリ言ってちょっと意外。何の疑問も無く歌える親子は或る意味幸せ。そして奴等に騙されている。
まあそんな事はどうでもよく、恙無く式は進む。
わが息子は1年1組。女房に言わせれば幼稚園時代の同級生ばかりだそうだ。
担任の紹介があり。式はあっけなく終わる。
けど、生徒の数が1クラス30人。1学年3クラスと言うのは私が小学生の頃に比べるとほぼ四分の一の規模。改めて少子化の進行を実感。
その後、教室に移動して親子でガイダンスを受ける。
息子の初めての学校の先生は綾小路きみまろ風の女の先生。
早々に心の中で「きみまろ」って渾名をつけてしまった。
正午頃に解散。
外は雲ひとつ無い晴天で、その後は校門付近で桜をバックに撮影会になったのは言うまでもない。
第一子の記念すべき門出の一日。
2009年4月3日金曜日
期変わり
事業化自体、不発に終わるのはどうと言うことは無いが、旧知の仲であったY課長との意識の溝が残ってしまったのは、これまた自分自身がろくでなしであると言うのをひしと感じた今期後半ではあった。
そもそも仕事に対しての意識が違いすぎるのだな。Y課長は「現場マネジメント」を手がけてきた人だからね。人は何の理由で動いて、どんな理由でやる気になるのか、最大の成果を挙げるのは何か、そして結果としてのコストは?売り上げは?って事を延々頭の中でシミュレートできる人。
それに引きかえオイラは、現状把握も分析も全く出来ていないのに、どんな成果物にしようか?と結論を急いで自爆してしまう人。目先の問題ばかりに眼が行って問題の本質が見えていない人。結局「現場処理」上がりの人間なので対策は出来ても、原因調査が徹底的に出来ない人なのだと言う事が良くわかりましたわ。今まで皆オイラの事を誤解して「理詰めの現場処理人」と思っていた様な節があるが、それはアンタ等の見る眼が節穴だったって事。
いずれにせよ一から反省の今期後半。
特に一つのミッションを背負ってからのこの三月は、只管一日は長く、短い一ヶ月であった。
疲れた。
2009年3月29日日曜日
卒園式(2009/3/20)
そして、親父もこの日で卒煙。これは皆禁にするぞ!と決意。
(息子が生まれた丁度6年前、禁煙を決意した筈だったのだがついつい酒飲むと煙吸っていたりする自分に喝!)
2009年3月15日日曜日
このまま行けば
それはそれとして、現実には徐々にではあるが調査も始めている。次回の1K庵はこのまま行くと恐らく葛飾辺りになる可能性が濃厚。
2009年3月8日日曜日
早三月
地球温暖化の影響か、近年は2月より3月の方が寒い。昔に比べ約一ヶ月ほど暦がずれている気がするが、今年も先週関東の僻地に行き始めた三日目に雪が降ったのには参った。この冬初めて見る雪だが、やはり僻地は僻地であることを痛感した。
ただ仕事のことは置いといて、この2月の上旬からこの一ヶ月は家庭は非常に円満やったなぁ。
まあ一ヶ月すれば、新たな期が始まり、再び僻地に単身赴任と言う可能性もあるが、、、今は一瞬忘れていよう。今は。
2009年2月21日土曜日
残念!新橋
2009年2月6日金曜日
2009年2月1日日曜日
2009年1月21日水曜日
その朝は号外が配られた
昨日は呑んで帰り、小浜の就任演説は生で見れず。米帝の最高権力者の就任演説なんてどうと言って今まで興味も持っていなかったが、小浜の就任演説だけは歴史の転換期を見とかねばと言う気が働いた。まぁ彼の出し物は色々あって何が成功して何が失敗するかなんて解らないが、確実に期待するのはグリーンニューディール。奴等のエネルギー意識が変われば、幾分かは人類は長生き出来るかも知れない。
それにしても、「小浜は英語がうめぇなぁ~」なんて脳天気な事を言う、支持率最低の「国語も出来ない馬鹿宰相」はこの小浜人気をどう見ているのか?本当にタダ単に羨んで見てるだけなんだろうが・・・・・
2009年1月19日月曜日
新橋で再開(2009/1/16)
週末金曜日はほぼ100%空いている、しかもこの日は幸運にも午後から上司が外出。
とは言っても呑めるのは長くても約一時間半、定時になって卓球脱出!で新橋へ。
SL広場前で待ち合わせ、立呑みでなく座れる店で鍋をやる。
最終新幹線に間に合うよう20時前には英とMサンは帰り、残ったのはOサンと私。
実はコンピュータ黎明期の経験者Oサンとは初対面なのだが、この後22時半過ぎまで焼酎ロックを呑みながら色々な事を話したのである。いやぁ面白い出会いでした。
2009年1月15日木曜日
2009年通勤風景(2009/1/8)
なーにゲームごときに真剣になってるんだよ?と思うよりも先に、どうみてもこいつは馬鹿にしか見えなかった。
続く地下鉄の中でも、前に座った学生風の奴が、これまた魚の腐ったような眼でポータブルゲーム機を叩きまくっている。
たまたまほぼ同じ時期に英蟯虫が日記で書いている。
→http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=167400&log=20090106
同じことが携帯電話でも言えると思う。
→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090112-00000021-maiall-soci
ゲーム機も携帯電話もオイラに言わせても社会悪。
企業は利益さえ出れば、何を作っても売っても良いのか?と思う。
企業の本質は利益を生むことだが、その存在価値は社会的な貢献、社会に利益をもたらす事にこそ見出せると思う。
馬鹿を生むゲーム機や、携帯電話を作っている会社が、馬鹿を拡大させていることにPL法を問う事が出来るなら、もっと社会から「どうしようもない馬鹿」が減っているだろうにと思う。
2009年1月13日火曜日
立呑酒乱(新橋「龍馬」2009/1/9)
2009年1月12日月曜日
2009年通勤風景(その1)(2009/1/6)
体質的とかそんな言い訳は効かないほどの自制心の無い型肥満のオッサンが左に居る事が大体狭いのだが、右のOLか学生の若い女が自らの横にプラスチック製のブリーフケースを置いているのが狭いのを益々狭くしている。こちらが腰掛けると、若い女はそれに反応するように明らかに故意にブリーフケースをグイグイと押し、出て行けと言わんばかりの行動に出る。「鬱陶しいな~」と思っていたら、今度は左の肥満が明らかに故意に肘を突き出してくる。
二、三駅こんな奴等に挟まれながら不愉快な気持ちでいたが、不意にそんな自分が馬鹿馬鹿しくなった。
まるでこれじゃあデブがエジプトで、女がレバノンかヨルダンかシリアで、女のブリーフケースがガザ地区で、オイラがイスラエルみたいな構図ぢゃん。オイラから見ればオイラがガザ地区で、デブが米帝で女が英帝で、ブリーフケースがイスラエルやねんけどな。
自分達の縄張り争いに汲々とするのは、悲しいかな人間の生まれもってのサガなのかも知れない。
そうか!その心理をゲームにしたのがイス取りゲームなわけやな。
因みに、隣の女に「カバンは網棚に置かれたら如何ですか?」と言ったが無視された。因みにこの女はセレブに人気の自由が丘で降りていった。隣のデブは狸寝入りを決め込んでいたが、次の駅で隅の席にヨタヨタと移動していった。
強欲な奴はいつでも、どこでも強欲である。人に合わせる、人と分かち合うと言うのをしらない。
しかしながら強欲な割りに電車で通っているわけだから、どうも強欲が収入とかで実を結んだことが無いようだ。
己を知れ!この強欲!
2009年1月5日月曜日
仕事始め
昨秋、丹波の山中の現場処理から再び、混沌と強欲の象徴、温室効果ガス垂れ流しの象徴「大東京」の「ご本社様」に転勤して来てから、「現場処理」と言う最も金儲けに無縁な業務の「金儲けモデル」をY課長と考えていたが、果たして今月が「金儲けモデル」化の白黒がハッキリする勝負の月なのである。金儲けに無縁な業務の「金儲けモデル」なんて、成立しても左団扇で暮らせる程の利益にも繋がらないが、実は我々には「金儲けモデル化」以前の使命がこのミッションには隠されているのである。この「金儲けモデル」化が成立しない場合、最悪の場合は現場処理及びその周辺技術部門の連中、それは数にして最小4名~最大30名ほど、更に言えば彼等の家族を含めれば約100名弱の将来を路頭に迷わす結果に陥る可能性がある。だからこそ我々は真面目にこのミッションに(多少、資料作りに飽きながらも・・・)取り組んでいるのであるが、、、、正月明けは確かに低血圧状態。思考力が働かないので早々に退社。
で、新年明けの今日から時間が掛かるが安い通勤ルートに切り替えたので、強盗慶太の敷設した私鉄で渋谷から横浜へ。
横浜の紀ノ国屋書店で探していた本をゲット
→http://kappa-novels.com/shinkan/200505/05_02.html
新年早々は横山秀夫から始めるのである。
閑話休題
昨日、もう一方の板に書いたら早速に180km/h→108km/hに変わっていた
→http://www.ekimaerindows.com/diary/diaryindex.html
友人Eの細かい配慮に感謝。
2009年1月4日日曜日
とんだ年明け(2009/1/1~2)
午後早くに例によって実兄一家が自宅に去り、その後はこの時とばかりうだうだだらだらと昼間から麦酒を飲んで暮らしていたら、あっという間に夕方になる。
早くも今晩、夜行寝台で自宅に帰るので、午後の9時半には実家を出た。
この冬は温暖化を印象付ける暖冬傾向が激しいが、元日の晩は流石に寒い。田舎なので寒空に満天の星が降り注ぐ。
会社員の小倅故に、実の父母も都会生活からのUターン組であり、この実家に暮らしたことは一度も無いが、最近この先祖代々の地が自分のルーツであると言う思いを何故か強く感じている。(住みたい住みたくないという感情とはまた別の感情として・・・)
40代も半ばを過ぎれば、それまで隠れていた心理が顔を出すのかも知れない。
最寄り駅を15分ほど遅れ、22時15分過ぎに再び上り夜行寝台の人となる。
が、ここからが長かった。
岡山の手前で実家からのメールで自宅の鍵を見事に忘れてきたことに気付き、再び実家にUターン。
結局、1/2の6時過ぎの「のぞみ」で東進する羽目に、、、。
1/2の一番列車なら切符が指定でも残っていたのが不幸中の幸い。
波乱を予想させる幕開けではある。
とんだ大晦日(2008/12/31)
一昨年の年末は実父が足を骨折、昨年は元日から実母が風邪で寝込んだ。
昭和の時代を共に生きてきた家族が皆、年齢を重ね確実に老いて行っている事を、毎年末に改めて感じるのである。
勿論、自分自身も老いて行っている事も・・・。
そんな事からか、この所、年末には確実に兄弟達が集まっている気がする。
昨日は夕刻に実姉が帰省し、この日の午後が実兄が四人家族で帰ってきた。
夕刻から鍋を囲んで、まあそれなりに賑やかな宴を開く。
それにしても、どのチャンネルを回しても大晦日のテレビ番組ほど今のこの世の中の低脳振りを反映したものは無い。
興味の無い格闘技か、何時までも変わらない「ド」の付くほど下らない演出の国営放送の歌番組か、「下町」と言う名の下らない漫才師の演出する「笑えない」バラエティ番組位しかない。
特に「下町」と言う名の下らない漫才師の番組は、甥っ子、姪っ子が見始めた事もあり暫く見ていたのだが、いい歳をした大人が内輪の貧乏芸人相手にイジメを繰り返している様を番組にしている様にしか見えず、少し見ただけで気分が悪くなった。
あんな「イジメ」を見て笑える人間は、或る意味「不幸」だ。
人を「イジメ」て視聴率が取れると言うのは、それだけ人心が殺伐としている証拠であり、誰もが日頃何かに虐められているから、更に弱い者を虐める(或いは虐めたい)という心理の現れだろう。
そんな事を思っている間に入浴の時間となり、普段は実母に風呂に入れてもらっている年老いた実父を風呂に入れる。
実父の背中を流したのは何年ぶりだか定かではないが、親孝行が出来るという事は、つくづく幸せな事だと今更ながらに思う。
そうこうする内に年を越した。
2008年帰省(2008/12/29)
因みにこの日は21時過ぎに女房に最寄駅まで送ってもらい、横浜22:21発の「サンライズ瀬戸・出雲」に乗る。
この寝台列車は以前出張で使った事がある。今回はソロと言う小さめの個室。昔で言うとB寝台?(その辺りの区別は正直分かりません)。何が驚いたって部屋の三分の一が階段なのである。因みに二階なので眺望は抜群。
夜行には酒とつまみと雑誌は欠かせず、この日は恵比寿の緑缶と濁り酒とちくわ。昼間に購入しておいたRIDE19を読みながらすっかりご機嫌。横浜を出て約40分。小田原あたりだったか?
まあこんな感じで狭いのだが、今の時代寝る所があるだけましとも言える。
夜中に一度目覚めた時は愛知県の何処かの街中を走っていた。煌々と照らされる誰も起きていない年の瀬の初冬の夜中の街は、ただ住宅と工場ばかりが目立つ無機質な景色で、その中を静かに走り去って行く夜行列車に自分自身が乗っていると言うのを不思議な感覚で捉えていた。まあそんな感覚は直ぐに深い眠りに取って代わられるのであったが、、、、、次に目覚めたのは大阪。電車はいつの間にか45分ほど遅れていて午前5時過ぎ。
夜が明けたのは岡山県内に入り、和気駅の手前辺りでなかったか?以前に比べると熟睡して、結局12/30朝の7:50に実家の最寄り駅に着いたのであった。クルマでも、飛行機でもいつも帰省は苦労しているが、今回は比較的楽な旅。そしてこれが今年最後の旅だった。よく考えれば単身赴任と言う、ある意味独り旅みたいな生活で年始を迎え、年の締めくくりもまた独り旅。こうして2008年も無事終わったので有る。